女優、パフォーマー、舞踏家、歌手、翻訳家、平和活動家
原サチコ
ドイツ語圏の公立劇場専属としての俳優業と日独交流プロジェクト
原サチコ(女優、パフォーマー、舞踏家、歌手、翻訳家、平和活動家)インタビュー
インタビュアー 山口真樹子(ゲーテ・インスティトゥート東京)
ハノーファー・広島姉妹都市交流
山口 原さんは2001年ドイツに渡り、その後ウィーン・ブルク劇場の専属俳優となり、さらにハノーファー州立劇場、ケルン市立劇場、ハンブルク・ドイツ劇場でも大活躍されました。2019年9月にチューリヒ市立劇場に移籍、今シーズンよりハンブルク・ドイツ劇場に復帰。これまでにクリストフ・シュリンゲンジーフ、ニコラス・シュテーマン、ルネ・ポレッシュやクリストフ・マルターラーなど、そうそうたる顔ぶれの演出家の作品に出演しています。それと並行して「ヒロシマ・サロン」を、広島の姉妹都市ハノーファーで始め、その後各地で展開しています。
原 2011年から続けてきた「ヒロシマ・サロン」を、新型コロナウィルス感染拡大でお休みしていましたが、こういう時期が長引く可能性があるので、オンラインでできることをやろうと思い、ハノーファー市文化局に相談したところ是非にと言われました。これまで「ヒロシマ・サロン」に出演した延べ100人のゲストのうち重要な7人にあらためてお会いして、それぞれにインタビューしました。広島との姉妹都市提携を実現させたハノーファー元市長シュマールシュテークさんもその一人で、大変立派な人物です。インタビューした方々の半数が、1970年代から広島・ハノーファーの青少年交流に関わってきました。これを編集し英語と日本語字幕を付けて、インターネット上で世界の誰もがみられるようにしたいと思います。これまでもドイツ、日本、ポーランド、スイスなどの様々な都市で開催してきましたが、広島・ハノーファーだけでなく、各都市の戦争の記憶を分かち合い、国の違いや国境を越えて、ともに世界平和に向けて何ができるかを問い続けるプログラムです。世界平和というと大げさかもしれませんが、他に言葉がないのでそう言っています。国と国との交流は個人と個人が知り合うことが基本で、そのよい例が広島・ハノーファーの姉妹都市・青少年交流だと思います。50年前のことをご当人に聞いて、それをちゃんと記録として残すことはやはり必要だと思います。きっと良いものになると思うので期待していてください。
山口「ヒロシマ・サロン」を始めた2011年は、ハノーファー州立劇場所属時代ですね。
原 2011年1月です。2010年10月に『少年口伝隊一九四五』(井上ひさし作)がハノーファー州立劇場のレパートリー作品として初日を迎えましたが、それより前に広島で取材した際のインタビュー映像をその演出の中に活かすことができませんでした。中でも私が一番感銘を受けた両都市青少年交流の発起人・林壽彦先生がその10月、初日直前に亡くなられたこともあり、林先生のインタビュー映像をハノーファー市民に見てもらうべく同劇場のドラマトゥルグのユーディット・ゲルステンベルクと話し合い、『少年口伝隊一九四五』公演の関連プログラムとして、2011年1月に「ヒロシマ・サロン」を始めました。そして3月に東日本大震災が起きました。観客の関心は当時フクシマ一色で、広島の話だけをするのはどうかと悩みました。自分も日本の家族のことが心配で、何を伝えるべきかわからず、ユーディットとも相談し、一回お休みしました。そして同年夏に日本へ帰国した際新たに取材をし、私の周りの人々を通して日本の今の姿を伝え、またハノーファーで大震災被災者の支援活動をしている人々にも取材して、日本とドイツの絆を問う「新・ヒロシマ・サロン」を翌シーズンに再開しました。
山口 ハノーファー州立劇場の演目として実施したのでしたね。
原 そうです。そのあと2012年の夏にケルン劇場に移籍しました。それも東日本大震災と関係がありました。東日本大震災をテーマに書かれたエルフリーデ・イェリネクの『Kein Licht(光のない)』をカリン・バイヤーが演出・世界初演するのに際し、出演しないかと誘われたのです。これは絶対出演すべき作品だと思いハノーファー州立劇場に無理を言って出演し、結果的にケルン市立劇場へ移籍しました。公立劇場の専属俳優が他の劇場に出演するのはとても難しいのです。「ヒロシマ・サロン」はそういうわけでハノーファー州立劇場では実施できなくなりましたが、ハノーファー市内の様々なホールで実施しました。ハノーファー日本人会、ハノーファー・広島友好会が全面的に協力してくれました。2015年より再びハノーファー州立劇場でやらせてもらえるようになりましたが、2019年夏に同劇場の体制が変わり、交渉に行こうとしているうちにロックダウンになりました。今までも今もハノーファー文化局がすごく応援してくれています。2012年からはベルリンやハンブルク、日本、ワルシャワなどでも開催してきました。ここ最近はICANドイツが協力してくれて更に活動が広がり、今年2月パリのICAN国際フォーラムでパフォーマンス「ヒロシマ・モンスターガール」を披露し、サーロー節子さんにもお目にかかりました。ロックダウンがなければフランスとアメリカにも呼ばれていました。
「ヒロシマ・サロン」オンライン版と、50年に及んだハノーファー・広島青少年交流の記録
山口 「ヒロシマ・サロン」出演者へのインタビューの内容について教えてください。
原 主にハノーファーのヒロシマ・サロンの昔からのメンバーをインタビューしました。元市長シュマールシュテークさんに聞いたのは、姉妹都市提携への経緯や、彼が広島を訪れたときの印象、さらに現在の状況での姉妹都市の役割についてです。私のテーマの一つでもあります。青少年交流の要だったビルギット・メルケルさんにも伺いました。両都市の青少年交流はそれぞれの家庭に子供がホームステイするもので、非常に実のある交流でした。2000年頃に立ち消えになったのは残念です。今やハノーファーでもあまり知られなくなりましたので、ハノーファーの人たちにもぜひみてほしいと思っています。そして世界に向けてハノーファーに住んでいる彼らの顔をアピールしたい。交流って顔が見えないとできないと思います。
ハノーファーでの「ヒロシマ・サロン」立ち上げ時からのメンバーの一人、サスキアはコスプレイヤーでハノーファーのコスプレ界のリーダー的存在です。普段は保険会社でスーツを着て働き、土日はアニメの扮装をしてコスプレの大会で仲間と集まります。彼女のような人がずっと一緒にやってくれて、若い世代が「ヒロシマ・サロン」に多数来てくれたことはとても貴重だと思います。核兵器などの政治的問題意識の高い人だけでなく、あらゆる世代の、あらゆる興味を持ったバラバラな人が集って共に話題を共有する場所としての「ヒロシマ・サロン」を、私は大事に思っています。また今回「ヒロシマ・サロン」・オンライン版に向けて初めてインタビューしたマリアさんは、去年1年間広島の老人ホームでボランティアとして働いていました。ホームのご老人との交流の話をきくと、涙が出ます。結局重要なのは人と人の直接の交流だとつくづく思います。
山口 姉妹都市について熱心に動く人がいたのですね。
原 広島とハノーファーの青少年交流は1970年から始まり、姉妹都市になったのは1983年です。ドイツには日本との姉妹都市が50くらいあります。通常は産業や経済関連による姉妹都市提携が多いのですが、広島とハノーファーの場合は、市民レベルの交流から姉妹都市に発展した唯一の例です。私が今住んでいるハンブルクは大阪と姉妹都市ですが、交流はあまり盛んではなく、私は所属するハンブルク・ドイツ劇場で2015年に「オオサカ・サロン」を始めました。おかげさまで毎回超満員です。皆この姉妹都市のことを知らなかったと言います。単純に、お互いを知らないのはもったいないと思います。特に日本にとって姉妹都市が大事だと思うのは、日本の若者が外国に行き、人々の生活やその考え方を見聞きして、そこから日本を改めて見るきっかけの一つになるのではと考えるからです。「オオサカ・サロン」の準備の為にハンブルク在住の日本人に大勢会いました。1950年代・60年代に船でハンブルクに渡航してきたご高齢の方達もいます。外国に行って学ぶ気概に満ちていた人々です。私も中高生の頃外国にとても憧れました。今日本に住んでいないので実情は分かりませんが帰国の際に感じるのは、若い世代が外国に行くことにあまり興味がないことです。それは日本の危機だとも感じます。来てみないとわからないことは多いし、外国に行くきっかけとして、まずは自分の住んでいる市の姉妹都市に行ってみる。その道筋があればよいのではと思います。本当は市などがサポートしてくれると一番なのですが。
山口 原さんは本当に重要なことを手がけています。
原 ハノーファーと広島の交流がもたらしたものは、青少年交流、大学の提携などの他にも多岐に渡っています。けん玉も広島の人がハノーファーにもっていきました。折り鶴のサダコの本を最初にドイツ語訳し出版したのもハノーファーの人です。サダコの話はハノーファーからドイツ語圏全体に広まり有名になりました。これらが忘れられているのは残念なので、今回インタビューの中にも取り上げました。それにしてもヒロシマという文字がタイトルにあると、それだけで政治的なプログラムかと引いてしまう人も多いのです。ドイツでは役者も演劇も十分政治的ですが、自分はもともと政治的な人間ではなく、むしろ人間に興味があるので、いろんな人の生き方や考え方を紹介してその中で皆で平和で生きていくにはどうしたらいいだろうねと考える、というアプローチです。ゲーテ・インスティトゥートにも応援してもらえればうれしいです。
※ヒロシマサロン・オンライン版は先日公開されました。
再びハンブルクへ
山口 本業について、今どうしておられるのかお聞かせください。
原 6年在籍したハンブルクからチューリヒの劇場に移籍したのが2019年8月です。移籍後もハンブルクにホームシックを感じる状態が続き、時々ハンブルク市立劇場のレパートリー作品に出演する為に帰る度、心身共に調子が良かったのは事実です。2020年1月末クリストフ・マルターラー演出作品『Die Wehleider』に出演するためにハンブルクに帰った際、突然舞台の上で「ハンブルクに戻ろう!」と決意しました。翌日インテンダントのカリン・バイヤーの秘書に電話して「戻りたいんだけど、受け入れてもらえるかな」と。彼女は「ほら言わんこっちゃない」と大爆笑してました。チーフ・ドラマトゥルグのリタ・ティーレも「戻ってきてくれたら嬉しい」と。割とあっさり戻っていらっしゃいと言ってもらえました。今年1月はまだコロナ・パンデミックはすごく遠い国の話でした。もし1ヶ月遅かったらこれほどスムーズにいかなかったかもしれません。2月初めにチューリヒ劇場のインテンダントのニコラス・シュテーマンとベンヤミン・フォン・ブロムベルクに契約解除を切り出しました。
山口 2人とも驚いたでしょう。3年契約でしたよね。
原 2人がトップのチューリッヒ劇場新体制が昨年8月に始まったばかりで、すぐ辞めるというのもどうか、ということですね。でもとにかくハンブルクに帰りたい!と思ってしまったのです。ニコラスは自身がハンブルク育ちなので、私にとってハンブルクが居心地がいいという意味を理解してくれました。誰でも受け入れる土壌や、どんな人でもそこそこ幸せに暮らせる懐の深さがあり、ストレートなものの言い方で言い合っても、正義感や人類愛、人権意識が強い。港町であり、独立心の強いハンザ都市であること、離れてみてそういったハンブルク気質がいかに自分にとって居心地がよいものかがよくわかりました。勿論息子もいるし友達も、6年間で培った経験もハンブルクにはある。何よりドイツ一美しいと言われるハンブルク市立劇場の空間が私は大好きなのです。ニコラス達には勿論引き止められましたが、既にハンブルクの劇場に戻られることも決まっていたので、納得してくれました。
解約手続に入ったとたん、スイスでも新型コロナウィルスの感染が始まりました。その頃私は、9.11. までのニューヨークを描いた大ベストセラー小説『My Year of Rest and Relaxation』(オテッサ・モシュフェグ)をもとにした作品の稽古中でした。2月頭から稽古が始まり、4月が初日予定で、チューリヒでの私の最後の出演作品となる予定でした。3月17日の稽古中、明日から外出できなくなるらしいと聞きました。そのあとはずっと自宅待機、ロックダウンです。初日が10月に延期され、その時点で私はキャストから外れることが決まりました。コロナの状況もですが、既に私のハンブルク復帰後の第一弾、ボン・パーク演出新作の初日が11月6日に決まっていたので、あきらめざるを得ませんでした。チューリヒでのロックダウン最中は、人生での骨休みのようでしたが、一方でドイツにいる息子や日本の両親といつ会えるのかと考えるととてつもなく不安になりました。今回の11月からの2度目のロックダウンでは稽古はできますし、ハンブルクにいて息子もいるし友達とも会えるので、今年の春よりは気が楽です。
演出家ルネ・ポレシュとボン・パーク
山口 夏にハンブルクへ引っ越し、ハンブルク市立劇場復帰後の最初の作品はなんでしたか。
原 2シーズン前に作ったポレシュの『Probleme, Probleme, Probleme』で、10月4日の公演でした。久々の公演はすごく楽しかったです。
山口 ポレシュは東京で2006年に『皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと』を演出した際、いかに役者が舞台上でプレッシャー感じずに済むかに心を砕く演出家でした。今もそうですか?
原 そうです。言いたくないセリフ言わなくていいよとか。それが自分の中で普通になっているので、他の演出家の稽古でも、私このセリフ言いたくない、って平気で言って周りがはっと固まって青くなってたりします(笑)。すごく強い女みたいに思われますが、ただやりたくないことはやれない性質で。今やポレシュは最も長く仕事をしている演出家です。2005年から15年間。ブルク劇場で3本、ハンブルクで3本、その間にもハノーファーでも彼の書き下ろしをちょっと読んだり、日本で彼の戯曲の日本語翻訳とリーディング公演も2作品やりました。彼との仕事で身につけた演劇観が自分のスタンダードになっています。
山口 確か、セリフを忘れる恐怖から役者を解放するために、プロンプターも舞台に乗るんですよね。
原 劇場には専属のプロンプターが数名いますが、ポレシュの場合そういうわけで舞台の上にプロンプターも乗るので、メイクもしてもらうし時々衣装もあって。ブルク劇場では私の出演した3作の中でもプロンプターが交代していました。きっと水面下の戦いがあったに違いないです(笑)。
山口 来週からポレシュの新作の稽古ですね。
原 そうです。劇場では公演はまだできないのですが、稽古は予定通り続けてそのまま冷凍保存して、初日ができるようになったら解凍して上演するというのが、カリンの方針です。すでに春のロックダウンで3作品を冷凍保存してあって、さらに2作品が11月に冷凍庫行きを予定されています。このままロックダウンが続けば、12月に初日を予定している2作品を加えて、合計7作品が冷凍保存されることになります。今シーズン中に7作品の初日をどう実現できるのか、頭の痛いところですが、きっと他の劇場も同じような状況だろうと思います。
山口 先日まで稽古していたボン・パークさんのことぜひ教えて下さい。
原 彼は今33歳で、お母さまが韓国の方でお顔立ちはそうですが、ベルリン生まれのベルリン育ちです。お母さまが学生の頃ベルリンに留学して、そのまま残りベルリンで働いて子育てなさったそうです。ボンは小さい頃からテレビっ子で、日本のアニメが大好き。大きくなってから何度も日本に行って、日本語も勉強しようとしたくらい日本好き。今回一緒に仕事をして、ああ、ついにこの世代がきたか、日本のアニメの感覚を自然に身につけた世代から演劇界に来る人がドイツにも出てきたか、と嬉しく思いました。
彼の書くものは本当に面白いです。演出家としては若いし経験も十分ではないにしても、これからが楽しみです。センスが違います。アニメとかNetFlixとか若い人達はたくさん見ているでしょう。彼がそれを稽古場で話題にしても、私も含め役者は誰一人知らず、稽古場で皆で一緒に見て「へー、こういうのがあるんだ」という具合でした。若いアシスタントに「今ドイツのチャートで1位ですよ」と言われたりしました。ドイツの演劇人も40代以上になると、今若者の間で流行っているものをキャッチアップできないんですよね。30代の彼らが見ているもの、面白がっているものを知ることがとても新鮮です。ボンは稽古前には台本を書かず、稽古が始まってから、いろいろな話題を持ち出し話し合って、一緒に映画を見て私たちの感想を聞いて、それらを元に書いていく人です。すごく才能があるし、とにかく新鮮です。稽古しながら書く人は、ルネ・ポレシュ以来何人もいましたが、この人は!という人はなかなかいませんでした。今回はシラーの『群盗』がモチーフになっているんですけど、ボンは全く書き換えています。彼の群盗観とかシラー観には本当に驚きました。これまでいろいろな演出家が群盗を手がけてきましたが、今回は根底から覆すような作品になっています。もし好評だったら、日本語訳したいと思っています。日本の人のほうがボン・パークの感性はわかるかもしれません。
新しい才能を発掘し育てる公立劇場のドラマトゥルグ
山口 そういう才能ある若い人を劇場のレパートリーに招くところもすばらしいですね。
原 それは大変な目利きのリタ・ティーレがいるからです。彼女はアイナー・シュレーフやクラウス・パイマンと伝説的な仕事をしてきたドイツ演劇界の重鎮的ドラマトゥルグで、今も彼女が目をつけて連れてくる人はすごい。ちなみに今や売れっ子演出家のカリン・ヘンケルも、ブルク劇場で演出助手だったころからリタがチャンスを与え育ててきた演出家です。また出版社からの絶大なる信頼があり、誰かが新作戯曲を書くと、出版社がまずリタのところに持ってきます。イェリネクの新作の多くもケルンやハンブルクでリタの元で世界初演されてきました。リタほど劇場のために働いているドラマトゥルグはいないと思います。豊富な経験と知識という面でも比類なき人ですが、専属俳優達の気持ちもちゃんと汲み取ってくれる劇場の母のような人でもあります。ルーツィ・オルトマン Lucie Ortmann(現ウィーン・シャウシュピールハウス チーフ・ドラマトゥルグ)はケルン市立劇場でリタのドラマトゥルグ助手をしていました。彼女もリタから沢山学んだこともあり、とても優秀です。
山口 劇場ではソーシャルディスタンスをとって稽古していますか。
原 共演者同士1.5メートル以上あけていますし、15分に1度は窓を開けています。一つの窓は開けっぱなしです。演じるときマスクはしませんが、共演者同士決して触りません。PCR検査も、6週間の稽古中に4回やりました。検査の費用は劇場持ちです。チケット収入がないので、劇場は大変です。時短就労で痛み分けしています。カリン・バイヤーはこれまでハンブルク・ドイツ劇場を大成功に導きました。このような危機の時にも素晴らしいインテンダントだと思います。刻々と変わる情勢に合わせ、決して諦めず、そして私達専属俳優や各部署と密に連絡をとり不安がらせない。彼女はもともとストリーミング公演には懐疑的だったんですが、演出家の希望で11月7日に『Wiener Wald』の初日ストリーミング公演を行い、とても手ごたえがあったので考えを改めたそうです。
山口 無観客公演ということですか。
原 そうです。カメラを何台も入れてライブストリーミングです。1500人以上の視聴があったそうです。何よりも嬉しかったのは、観客の人から「観ました」「とても良かった」「またやって」という感想や、ストリーミングを観ている様子の画像や映像がたくさん届いたそうです。正装して自宅の居間でストリーミングを観ている画像を送ってくる人とか。ストリーミングであっても公演を喜んでいる人が、劇場を応援している人がこんなに沢山いる、そう実感したそうです。また、スタッフも役者の側も、無観客公演であっても、作品が完成して初日が迎えられたという喜びがちゃんと得られた。先週も彼女の演出作品のストリーミング公演を実施し、来週もやるそうです。
山口 物理的に劇場に来られない人達にとってもチャンスですね。ハンブルク市立劇場のような大劇場がストリーミングに踏み切ると、演劇界に与える影響もそれなりにありますね。
原 ベルリンでもやっているようですが、賛否両論ですね。カリン・バイヤーは、私たちの劇場はまずハンブルク市民のための劇場であるという意識が強くて、市民に向き合って、何を求めていて何を観たいかということを第一に考えていると思います。ところで私のお気に入りの作品といえば、『ラザルス』はぜひまた上演してほしいです。デヴィッド・ボウイの書いたミュージカル作品で、世界中で上演されていますが、うちの劇場でも全公演完売の大成功でした。私たちのバージョンではボウイ役の俳優が姿も声もボウイに本当に瓜二つで、しかも演奏は生バンド、他とは桁違いの予算で作られた贅沢なラザルスなのです。公演には本当に世界中からボウイのファンが来ていました。私自身ボウイの大ファンなので、この作品をやると知った時から嬉しかったし、カーテンコールで観客席にいる世界中から来たボウイのファンの顔・顔を見るだけで毎回泣いてしまってました。この作品もリタの発案です。
ハンブルクの多様性と懐の深さ
山口 ハンブルクの懐の深さ、多様性についてもお話しいただけますか。劇場の中でも多様性を感じますか?
原 劇場にはアーティスティック・チーム(インテンダント、俳優、ドラマトゥルグなど)とは別に、大道具・小道具・照明・音響・衣装部その他様々な部署の人が300人以上働いています。私達アーティスティック・チームはインテンダントの交代に伴い都市から都市へと移動しますが、裏方さんはだいたいがハンブルクに長年住む人達です。その人達を通じて、ハンブルク市民気質を知りました。
とても大きな出来事は、2015年10月からドイツに大勢の難民がやって来た時のことです。ハンブルク中央駅にも南から上がってきて北への乗り換えの電車を待つ間、野宿しなければいけない難民が毎晩何千人といました。私たちの劇場はハンブルク中央駅のちょうど向かい側にあります。カリン・バイヤーは劇場の規則に反しても、劇場内に難民を泊めることにしました。野宿させられないです、小さい子供を連れている人も大勢いましたし、ハンブルクは10月でも夜は10度以下になります。劇場ロビーにマットレスを引いて、寝床を用意して泊めました。劇場内の有志で、夜中4,5人のチームになって難民のお世話をしました。そのときに普段あまり交流のない大道具や照明、経理の人と一晩一緒にチームとして過ごし、彼らのこともよく知るようになりました。難民の人の中には着の身着のままで逃げてきた人や裸足の人もいるし、足が倍くらいに腫れていたり、赤ちゃんのお尻が真っ赤にただれていたり、私は難民の人と接するのが初めてで時にはショックで泣いてしまうこともありました。しかしチームの人達はそういう人たちの面倒をごく普通にみていた。子供を抱っこしたり荷物を持ってあげたり。具合の悪い人がいればお医者さんにすぐ電話して、タクシー代を自分で払って連れて行ったり。同じ人間だから、ということだけでここまで自然に出来る人たちがいることに私は驚きました。
ハンブルクに来て2年目で、ハンブルクにも劇場にもまだ完全には慣れていなかったのですが、この活動を通してこういう人たちがこの劇場を支えていることがわかり、とても安心しました。東洋人としても初めての専属俳優なので、どこで何を言われているか分からないと身構えていましたが、この劇場の人たちはなんの偏見もないんだな、と安心しました。日本人とか何人とか意識せず、私が私として認められる場所なんだなと思いました。今回私がチューリヒから戻ることをカリンが皆に発表してくれた時も、皆で大拍手してくれたそうで、それを聞いた時はとても嬉しかったです。
山口 ハンブルク・ドイツ劇場はまさに大劇場ですね。
原 うちの劇場では障害のある人を一定数雇っていて、衣装部にも一人聾唖の人がいます。彼女一人のために、衣装部の人全員が手話を習ったそうです。ハンブルク市が手話の講師を派遣して、皆の勤務時間内に手話講座が開かれたそうです。彼女一人が孤立しないように。それも多様性を認める一環です。皆がそれを自然に受け入れています。そういうことも私に安心感をくれます。私が専属俳優として初めて挨拶した時も、「初めての日本人ですよね」と言っても「あ、そういえばそうね」で終わりです。無関心というのではなく、人それぞれ違うことを普通に受け入れるクールな感じ。ハンブルクの伝統かもしれません。カリン・バイヤーはここ数年複数の劇場から引き抜きの話があったようですが、自分は引退するまでこの劇場にとどまると先日明言しました。私もこの劇場に長くいられるように頑張りたいと思います。
1964年生まれ、上智大学外国語学部ドイツ語学科卒。演劇舎蟷螂、「オプチカル・マリンカ」を経て、「ロマンチカ」に所属、主演をつとめる。1999年の演出家クリストフ・シュリンゲンジーフとの仕事を機に、後にベルリンへ移住。2004年ウィーン・ブルク劇場に専属。さらにハノーファー、ケルン、ハンブルク、チューリヒなど、これまで17年に渡りドイツ語圏公立劇場で専属俳優として活躍中。代表作に「三文オペラ」(ニコラス・シュテーマン演出)、「メア・クルパ」(クリストフ・シュリンゲンジーフ演出)、「光のない」(カリン・バイヤー演出)、「ロッコ・ダーソウ」(ルネ・ポレシュ作演出)、「ヴェーライダー」(クリストフ・マルターラー演出)、「地震・夢」(細川俊夫作曲・ヨッシ・ヴィーラー演出)等。2010年広島の友好都市ハノーファーにて井上ひさし作「少年口伝隊一九四五」の欧州初演を企画。2011年より広島原爆の記憶を現在と結ぶ「ヒロシマ・サロン」を主催、ハノーファーを中心に世界各地で公演。現在ハンブルク市立劇場所属。日本でドイツ演劇作品の日本語リーディング、講演、ワークショップ等も積極的に行っている。