ドミニク・チェン
ユーラシア・プログラム序文
ヨーゼフ・ボイスにとってユーラシアは、東洋と西洋が一つに融合するユートピアを想起させるイメージであった。ボイスの自作神話は、このことを最もよく象徴している―ナチス・ドイツ空軍パイロットであったボイスの飛行機がクリミアに墜落した時、クリミア・タタール人に救出されたというのだ。この伝説は、ボイスがフェルトや脂肪など、ユーラシア遊牧民が使う日用品を作品に用いていることを説明している。
ユーラシアは、ヨーロッパとアジアを包含する世界最大の大陸の地理的名称である。しかし、ユーラシアは非常に広大な領域に及ぶ概念であるため、自らを「ユーラシア人」だと自認する人はいない。世界が第二次世界大戦後に冷戦に突入し、ドイツも東西陣営に分断された時代にあって、ボイスはユーラシアという抽象的なイメージを、統合された世界の象徴として自身の芸術表現に取り込んだ。ボイスのEUR-ASIAプロジェクト(1)についての包括的な批評を執筆した、ボイス研究者にして、キュレーターの渡辺真也によると、ボイスは東西ユーラシアにおける神話の類似性に魅了されていたという。
ボイスのずっと以前から、ヨーロッパ人は東の地に幻想的な憧れを投影してきた。18世紀後半のイギリスのロマン派詩人サミュエル・コールリッジは『クーブラ・カーン』の中で、クビライの夏の首都・上都を、享楽の大都市として表現した。それ以来「ザナドゥ(Xanadu、キリスト教宣教師による上都Shàngdūの誤記)という語は、西洋文化において「幻影のようなユートピア」の同義語として用いられてきた。コールリッジの詩は多くの文学作品に影響を与えたが、現代のテクノカルチャーの中にさえその影響を見ることができる。コンピューター・サイエンティストのテッド・ネルソンは、自らのハイパーテキスト・プロジェクトを「ザナドゥ」(2)と名付け、また1980年代には、同名の人気ビデオゲームが発売されている。(3)
また混合した。噂話や幻想は、無知や不完全な情報からもたらされる。海路や空路、電信網、そしてその後インターネットが発達するまでは、ユーラシア大陸の東西を隔てる途方もない距離は、様々な人、モノ、文化の媒介であったと同時に、さまざまな誤解や噂話の媒介ともなっていた。ユーラシアで生まれたおそらく最も劇的な幻想の例として、プレスター・ジョンの伝説があげられるだろう。繰り返される十字軍の遠征によりキリスト教世界がイスラム世界と対峙していた11世紀初め、キリスト教の司祭王プレスター・ジョンが、極東の王国を支配しており、最終的にはヨーロッパを救い出すのだという噂が広まった。
実際には、この噂の起源は耶律大石という人物であった。耶律大石は、遊牧民である契丹族が建国し女真族の金王朝によって滅ぼされた、遼王朝の末裔である。彼は、セルジューク朝のアフマド・サンジャルをサマルカンド近くのカトワーンで破り、西遼王朝(カラ・キタイとしても知られる)を建国した。1246年、教皇インノケンティウス4世がチンギス・カンの孫・グユクからペルシャ語の脅迫的な返事を受け取るまで、バチカンはプレスター・ジョンの正体を知らなかったのだ。チンギス・カンへの教皇の使者・カルピニは、モンゴル帝国が、多くのネストリウス派キリスト教徒の家臣を抱えていることも知った。
今日の視点からこの誤解の連鎖を振り返り、いかに当時の情報の流れが不完全であったかに驚くのは簡単である。しかし代わりに、噂話や幻想を、ユーラシア文化の複雑さを理解するための資料とみなす方が、より有益であろう。実際、ユーラシア大陸の広大な土地は、複雑な文化的力学の中で生きる多様な住民の間に、数え切れないほどの相互作用と対立の歴史を生み出してきた。
確かに私は、遠い世界同士に起こる、この種の誤解の物語に魅了されてきた。そして私がこのような物語に惹きつけられる理由についても、長い間考え続けてきた。これらの物語は、単なるコミュニケーションの失敗ではなく、ユーラシア全土で様々なグループが離散する中で、多くの人々が脱領土化されてきたことの証拠なのではないだろうか。私自身が多民族の背景を持っており、ユーラシアの文化的景観を育んだ複雑な絡み合いに対しては、親しみを感じている。このような脱領土化されたユーラシア人の別の例として、金王朝末期に生まれた契丹族の末裔で、のちに高官としてチンギス・カンに雇われた、耶律楚材がいる。耶律楚材は、モンゴル帝国が、彼の民族的祖先が建国した西遼王朝を滅亡させることに間接的に貢献したが、それだけでなく、征服した領土に合理的な政策を導入することによって住民の命を救いもしたと言われている。
ユーラシアの歴史を学んだ後、ヨーゼフ・ボイスは、主に中央アジアの草原地帯で生活する様々な遊牧民のモチーフを芸術表現に取り入れ、同時に「社会彫刻」や「拡張された芸術の定義」の概念を発展させていった。しかしボイスのユーラシア文化への言及は、あくまで抽象的であいまいであった。ユーラシアを難解に描写することで、冷戦時代における資本主義と共産主義の二項対立から逃れようとする彼の試みは、実在などしないプレスター・ジョンの幻影を描き出そうとした、中世キリスト教徒を多少なりとも思い起こさせる。とはいえ、例えば同時代のアンディ・ウォーホルが資本主義文化に深く入り込んで行ったのとは対照的に、ボイスが、彼自身にとってまったくの異文化に目を向けたことは注目に値するだろう。
しかし、ここで私は自問する。ボイス没後30年以上経った今、私たちはユーラシアの現実についてどのくらい知っているだろうか? 私はユーラシア大陸の西端、東端の地域文化の中で生まれ、育ち、暮らす、日本と、台湾、そしてベトナムにルーツを持つフランス人である。しかし私が訪れたことのある内陸アジアの国は、モンゴルのみだ。
日本は極東アジアで最も早く、最も深く西洋社会の影響を受けた国であることを踏まえれば、ここで私が言う「私たち」は広義の「西洋」に属する人々を指している。つまりボイスがそうであったように、私自身もユーラシアという概念や、中央アジアという国境に憧れを抱いている。しかしそれはなぜだろう? この憧れは、オリエンタリズムの形態の一つとして否定すべきなのだろうか?
これらの問いと自らの無知に向き合うため、私は古代から中世、そして近世から現代に至る、中央アジアの歴史についての文献をリサーチしてきた。そのなかで、中央アジアの歴史が、どのように中国王朝、チンギス・カンとその子孫の帝国、近代ロシアといった大国間の紛争という視点から記述されているのかを学んでいる。このような視点から歴史をみると、文字どおりユーラシアの中核をなす中央アジア地域は、列強国の影にひっそり潜んでいるように見える。近代国家は自身の覇権の歴史を喧伝し、時にはその成果を誇張する傾向がある。しかしこの政治的傾向は、ユーラシアをナショナリズムが衝突する場所に矮小化させるだけだ。
私がより本質的に興味を抱いているのは、ユーラシアという広大なプラットフォーム内で渦巻く文化的力学である。これらの力学は、異文化と、これらの力学の果実である複雑性とを育んできた。「草原の遊牧民」という単純なステレオタイプからユーラシアを理解しようとしても、その複雑さを理解することはできない。したがって、ボイスが提唱したユーラシアの概念に今応答するには、私たちのユーラシアに対する認識を、西洋の認識論のくびきから解放することが必要だ。
私は情報科学者として、また長年クリエイティブ・コモンズ運動に関わってきたメンバーとして、ユーラシアにおける情報ネットワークの歴史的進化にも注目している。ユーラシアにおける文化伝播を専門とするディディエ・ガザニャドウは、モンゴル帝国が過去の中国の王朝から取り入れた軍事的郵送ネットワーク「ジャムチ」がいかにユーラシアを覆い、その後のヨーロッパの郵便ネットワークにどのように影響を与えたかを研究してきた(4)。この過程で、農具や家庭用品など多種多様な技術がユーラシア大陸全域に拡散、変容し、また混合した。
この刺激的な文化の流れは、距離と時間を要する物理的ネットワークから生まれたが、これは、時間と空間を瞬時につなぐ現在のインターネットとは異なるものだ。膨大な情報や資料が交錯する中で生まれた文化的、芸術的、哲学的リアリティとは何だろうか?
*1: 渡辺真也「Searching for EUR-ASIA Joseph Beuys and Nam June Paik's Life Long Collaboration」、博士論文、ベルリン芸術大学、ベルリン、2017年、2021年3月14日にアクセス。
*2: PROJECT XANADU、2021年3月14日にアクセス。
* 3: ウィキペディア寄稿者(2021年3月10日)、Xanadu(ビデオゲーム)、ウィキペディア、フリー百科事典、2021年3月14日7時56分検索
*4: Didier Gazagnadou, Diffusion of techniques, globalization and subjectivities, Éditions Kimé, 2017