濱口竜介監督によるベルリン滞在記
ベルリン国際映画祭(2021)の記録

Guzen to Sozo
© Ali Ghandtschi / Berlinale 2021

文・濱口 竜介

右鼻奥に柔らかくしなやかな棒状の何かを突っ込まれて3秒、痛いというよりは「こんな奥まで」とビックリする。鼻をほじるぐらいでは到達できない深みへ、その細く柔らかな何かは入り込んで粘液を採取していった。自分の身体に確認したことのない深部のあることを突きつけられて、抜かれてしばらく自分の身体地図が書き換わったような感覚を覚える。ごくごく多少ではあるけれども。
ドイツ入国には72時間以内のコロナ・ウィルス陰性証明書が必要となる。監督作『偶然と想像』がベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を得たことを受けて2021年の6月10日、プロデューサーの高田聡さんとともに虎ノ門のクリニックを訪れてPCR検査を受けた。ドイツに渡航し、授賞式及び作品のプレミア上映に参加するためだ。 

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『偶然と想像』
『偶然と想像』 | ©︎ 2021 NEOPA / Fictive
2021年、ベルリン国際映画祭はコロナ禍の影響下において、例年2月に開催される映画祭スケジュールを「解体」し、3月にオンラインでのマーケット開催と審査員による受賞作品の選定を行った。一方で6月に「サマー・スペシャル」と題して作品上映と授賞式のリアルイベントを行うことを宣言した。この異例の措置が、年サイクルで営まれる映画祭の運営事務局にとっては極めて大きな負担となることも想像に難くない。それでも労苦を厭わずに開催を決断したのは、やはり「三大映画祭」の矜持というものがあっただろうか。自分たちが止まれば、世界の映画産業にとって前年に続く大きな躓きとなる。はたまた開催を見送ることで自分たちの国際的地位の低下を避けようとしたのだろうか。真実はわからない。事務局内で一体どのような議論が重ねられたのかは、外野からは伺い知れない。ただ、一参加者として感じたのは、この「二段構え」の開催が、この状況下ではきわめて理に適ったことであるということだった。実際にコロナ禍のまっただなかで大過なく国際映画祭を運営するにはプライドのみでは足らない。そこにはリスク計算をする知性と、「異例」へと対応するオペレーション能力が必要となる。
 
コロナ禍において開催中止となるリスクは幾重にもある。最大のリスクは接触し、感染すれば、隔離され、それによって行動不能になることだ。周囲の濃厚接触者も同様で、一つの感染が組織全体を機能不全に陥らせる。映画祭の「前半戦」となる3月、映画祭事務局は人の接触機会を最大限に抑制すべきと判断し、オンラインでの映画視聴及び交渉へとマーケット参加者を誘導した。しかし一つ問題がある。ある映画の魅力をPC画面のモニターとイヤホンで、十分に汲み尽くせるものだろうか。断じて否だろう。そのことを他ならぬ配給業者たちが誰より肌身にしみて知っているはずだ。映画一本を買うことが社運を賭けることでありうるのだから、モニター上での視聴体験は必ずしも「買い」の決断を促すのに十分なものではない。なので、ここでも異例の措置がある。
 
"EFM(ヨーロピアン・フィルム・マーケット) Goes Global"と名付けられた遠隔地上映が世界4都市で行われた。このなかには東京も含まれており、渋谷のユーロライブという劇場が臨時の「ベルリン国際映画祭日本会場」となった。もちろん基本的には映画配給業者やジャーナリストなどのプロフェッショナルしか参加はできないが、買う(買わない)のであれ、書く(書かない)のであれ彼らが劇場で映画を見ることで得たものは計り知れない。映画祭事務局にとっては各都市に上映作品のデータを送ることは、もちろん10年前に比べれば遥かにやりやすいことではあるだろうけれど、コストとリスクを新たに請け負う事態であったのは間違いない。
 
この「劇場体験」への配慮は、賞審査においてもある。コンペ部門で言えば6名の審査員(全員が金熊賞受賞経験のある監督)のうち、渡航を禁じられた2名を除く4名はベルリンを訪れ、コンペ出品作のすべてを劇場スクリーンで鑑賞して審査に臨んだ。3日間で15本を見たと聞くからそれなりのハイペースだが、大画面と大音響、そして劇場の椅子は彼女らが映画を見、聞き続けることを大いに助けただろう。
 
『偶然と想像』がコンペ作品に選ばれて、年明けより映画祭事務局から「異例」の建て付けを告げるメールが届くたびに、事務局がリスクを「現況下で請け負える範囲」へと縮減しつつ、映画産業のなかで欠くべからざる国際映画祭の機能を割り出し、そこへと注力している印象を強くした。そして何より「映画と観客がいかに出会うか」という核心に思いが致されたうえであらゆる選択が為されているという印象が、よりいっそう驚きを深くした。結果として作品に賞を授与されたことはもちろん大きな喜びであったけれど、その瞬間的昂り以上に、細心細密かつ持続的な営みによって可能になったものであるということへの感銘が強く心身に刻まれた。
 
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6月12日、モスクワでのトランジットを経て、ベルリン・ブランデンブルク国際空港に着くも、入国にはやはり時間がかかった。陰性証明書を入国管理官に提示して、ようやくゲートをくぐると映画祭スタッフのエリザさんが待ちくたびれた様子もなく笑顔で待っていた。オンラインでも既に挨拶をしていたエリザさんは日伊ハーフのドイツ在住歴10年ということで、非常に頼もしいクワトロリンガル(英語まで話せる)だった。彼女は映画祭の公用車に我々だけを乗せると「自分はここまで。別のスタッフがホテルで待っています」と言った。スタッフは感染防止のために、ゲストと同じ車には乗れないのが映画祭の規定だ。彼女はただ、我々を車に無事に乗せるためだけに空港で長い時間を待っていた。
 
気候のよい6月、ベルリン市内・シュプレー川の中州「ムゼウムスインゼル(博物館島)」に特設された野外スクリーンでコンペ参加作品や各部門の受賞作品が上映される。観客は主にベルリン市民だ。ベルリン国際映画祭は製作者・バイヤー・ジャーナリストといったプロフェッショナルが参加するのはもちろんだが、何よりも一般市民へと広く開かれた「観客の映画祭」であると事務局スタッフは何度も言った。そのときに彼らが、この「サマー・スペシャル」をリアル・イベントとして開くことにこだわった必然性も腑に落ちた。ついにベルリンの地で、映画が多くの観客の目に直に触れる機会が訪れたのだ。しかしこの「後半戦」の開催にあたっても映画祭運営はより細やかで、ときに厳格なものに思われた。
 

 

博物館島の野外劇場にて
博物館島の野外劇場にて |
映画祭への招待が正式に届いた5月にはまだ、日本からドイツへは特別な事由なしに渡航はできない状態だった。渡航を可能にしてくれるのはこの映画祭からの公式招待状のみだったが、招待に際しての事務局からの要件は「同行する人間は最小限に(できれば監督一人に)絞ること」だった。英語のやり取りには不安もあったので、英語が堪能な高田プロデューサーにも招待状を発給してほしいとは映画祭にお願いした。受賞を喜んでくれたキャストやスタッフの同行がかなわないことは率直に残念に思ったが、実際に接触機会の生まれるリアル・イベントにおいて映画祭を実現させるためのリスク・コントロールの一環なのだと納得はできた。

ウィルス罹患によって渡航がかなわない場合を想定して、映画祭観客へのビデオメッセージを開催1ヶ月前に収録して送った。おそらくはドイツ語と英語の字幕が付けられたであろう映像は幸いにして使われなかった(検査を経て、6月に陰性証明が得られたときの強い安堵感は忘れがたい)。実際にどのように映画祭が進行するか、ということは渡航の前にオンラインで説明を受けていた。どのようにソーシャル・ディスタンスを保持しながら授賞式やレッドカーペット、フォトコールが進行するのか。どこからどの範囲までマスクを付けるか、ということが細かに決められており、先入観で申し訳ないけれどこれらの式次第は実に「ドイツ的」な厳格さを感じさせた。
 
到着翌日の13日、時差ボケの抜けないまま授賞式を迎えた。「博物館島」の一画、ジェームズ・サイモン・ギャラリーの表階段にて審査員と受賞者の集合写真が撮られる。集合写真と言っても寄り集まるのではなく、距離は各人の間で保たれている。そうして撮られた写真のなかで距離は均整へと変換されていた。悪状況を受け入れたうえで好転させる知恵はここにも貫かれている。

Jurymitglieder und Preisträger*innen
受賞者・審査員とともに | © Ali Ghandtschi / Berlinale 2021
「例年より短いんだけれど」と映画祭スタッフが含羞を感じさせつつ示したレッドカーペットは、自分には十分に長く思われた。授賞式が始まり、受賞者が一人ひとり壇上に呼ばれる。十数組の受賞者が来場しており、各人が熱のこもったスピーチを行う。当初の予定を1時間以上オーバーしても自分の順番は回ってこなかった。21時を過ぎると、陽が落ちてきて、島を囲んでいる川からなのか冷気が流れ込んでくる。ジャケットの前を合わせた。自分の名前と作品タイトルがコールされる頃には手指がすっかり冷えていた。誰からも手渡されることが許されず、壇上に置かれた銀熊を冷えた手でつかんだ。ずっしり重かった。「今までこれで誰か殺した受賞者はいないんですかね」というつかみのジョークを思いついたが、思いとどまった。きっと誰しもその道をたどったに違いない。壇上ではここに来られないキャストやスタッフの名を呼び、映画祭への心からの感謝を述べた。
監督の受賞スピーチ
監督の受賞スピーチ |
たまたまフランス留学中で渡航可能だった『偶然と想像』助監督の高野徹くんは、映画祭に合わせてベルリンまで来てくれた。それだけでなく映画祭風景の写真・映像の撮影を買って出てくれた。トロフィーを持って再度フォトコールに行くと、高野くんもそこにいた。彼は本来入れなかったのだが、エリザさんが引き入れてくれた。高野くんは全3話すべてに参加してくれていた唯一の助監督でもある。フォトコールで「笑って」と言われても上手に笑えないのだが(カメラマンの皆さんもっと考えてくれないかしら)、彼が笑顔とともにカメラを構えると、こちらも自然に笑顔が出た。その写真が翌日、日本のメディアでは使われることになる。すごくはしゃいでいるようで恥ずかしい気持ちにもなるが、それが我々の間に生じた感情なのだから致し方ない。
 
長い授賞式が終わり、川に面したベルガモン新博物館のバルコニーで夜気のなかディナー・パーティーが催された。ポツンとしている典型的日本人にアーティスティック・ディレクターのカルロ・シャトリアンが話しかけてくれた。2015年にカルロがロカルノ国際映画祭のアーティスティック・ディレクターを務めていたとき、『ハッピーアワー』という5時間超の自作をコンペに選んでくれたことがあった。自分にとっては初めての大きな映画祭のコンペ参加であり、カルロに対しては「見つけてもらった」恩義のような感覚を抱いている。ロカルノでも会った「チーム・カルロ」とも言うべきプログラマーのオレリー・ゴデは作品の感想をこう伝えてくれた。「私にはあなたの映画の役者の演技が巧いのかどうか判断できない。それでもあなたの役者からは特殊な〈パーソナリティー〉を感じる。〈パーソナリティー〉が直接に感じられて、本人と役の境目がわからなくなって、本当に〈その人〉そのものを見ているような感覚になる。それはあなたの映画を観ることの大きな喜びなの」と。実は、これは自分が撮影や編集で感じている感覚でもあるし、自分がキャスティングする基準もまさに役者の〈パーソナリティー〉に魅力を感じるか否か、だ。ただ、その感覚が言語の壁を超えて届き得るということに単純に驚いた。オレリーはこうも言った。「あなたが(使われなかった)ビデオメッセージで『自分は行けなかったけど、映画と観客が直接に出会うのを楽しみにしています』と言っていて、それが現実と矛盾するんじゃないかってとても怖かった。やっぱり観客と映画が出会えない可能性もあったから」と。聞けば、ベルリンで人びとがマスクもなしに自由に出歩けるような状態になったのは6月に入ってからのようだった。無観客で、マスコミの前だけで授賞セレモニーを行う可能性も十分にあった。実際の観客を目にした今からすれば、それがどれだけ寒々とした光景であるかは容易に想像できるし、この日までそのビジョンは彼女たちに恐怖を与え続けただろう。彼女たちが尋常ならざる不安のなかでこの「サマー・スペシャル」の運営をしていたことが改めて感じられた。
 
14日は宿泊ホテルで帰国用PCR検査を受ける。これも映画祭が手配してくれたものだ。日本のように奥深く突っ込まれることを覚悟(どこかで期待)していたら「ちょっとくすぐったいよ〜」という感じで、綿棒で鼻孔をこちょこちょと擦るのみだった。時差ボケの収まらぬままほぼ寝て過ごし、夜は『偶然と想像』を預けているベルリン拠点のワールドセールス「m-appeal」メンバーと食事をした。ロシア人のサーシャ、ポーランド人のマグダ、ハンガリー人のリラたちをドイツ人のマレンが率いる小さな多国籍企業だ。「小さな」とつい言ってしまったが、うちもまったく大きいとは言えない制作所帯だ。幸せに仕事をするには、規模をコントロールする必要がある。m-appealが常に誠実にこの作品を気にかけ、最善を図ってくれていることを日々感じていたので、こうして実際に会って祝杯を上げられたことを喜ばしく感じた。各国映画祭とのやり取りを事細かにやってくれていたマグダの剽軽さにはひときわ笑わされ、驚かされた。オンラインではわからないものだ。
 
15日はまず博物館島を巡った。ゲルハルト・リヒター目当てに「旧国立美術館」に入る。リヒターの巨大な四枚画は壮観でずっと見ていられるものであったが、1階全体を埋め尽くすように配置されたアドルフ・メンツェルというドイツ人画家の絵に最も心惹かれた。フレーム内への意識が限界まで高められたような書き込みの緻密さや明暗への強い意識などは同時代の絵画とは一線を画するものとして感じられた。ドイツを代表する画家なのだと言われたら納得せざるを得ないような力強さみなぎる絵画を前に、今までその名を知らなかったことの恥と新たに知れたことの喜びを同時に得る。
その晩、プレミア上映を迎えた。チケットは完売し、客席は一席ずつ空ける形で埋まっている。カルロの紹介を受けて高田プロデューサーと助監督・高野徹くんとともにステージに上がり、ようやく観客と出会えた喜びと感謝を述べた。19時でもまだまだ外は明るい。自分たちも客席に着く。映画が始まる。野外スクリーンは高輝度のLEDスクリーンだが、映画前半部は暗い場面が続くため見づらく、観客が楽しめているかとドキドキとした。段々と笑いが起こり始める。映画が中盤を過ぎた頃になると夕闇が迫り、街と映画が溶け合うような感覚を味わう。ポップコーンの香りが漂ってきて、鳥がスクリーンの向こう側へと飛んでいく。笑いと、観客の集中を感じる静けさが波のように交互に訪れる。エンドクレジットが流れ出すと、大きな拍手が起きた。スポットライトが当てられ、立ち上がって礼をした。こういうときにどう振る舞えばいいかは未だにわからない。 
野外スクリーンでのプレミア上映
野外スクリーンでのプレミア上映 |
ベルリン滞在は実に短く、16日の早朝に映画祭スタッフのルイーゼと、まだまだベルリンにとどまる高野くんがホテルまで見送りに来てくれた。高田さんとともに映画祭公用車に再び乗り込むと、空港に向けて発車する。二人が手を振ってくれるのが見えた。授賞式の壇上で、キャストやスタッフの名前を呼んだのは、実のところ今年の「キネマ旬報ベストテン」授賞式における黒沢清監督の『スパイの妻』受賞スピーチの真似でもあった。黒沢さんはメモもなく30人近くの名前を呼んだ。自分の名前も呼ばれ、大いに感動するところがあったので、自分もそうしようと思った。映画とはこの「人」たちのことに他ならないからだ。そして、それは映画祭にも言える。それをつくっている人たちがいる。当たり前のことだ。しかしその事実はルーティン通りの、システマティックな運営がなされるときには隠れてしまう。パンデミックという異例の事態は、この映画祭が参加者や映画をどれほどケアしているかをかえって露出させていた。

自分自身の持っているリソースが何であるか。自分たちはどの程度のリスクなら許容できるのか。それを見極めてリソースを配分し、ものごとを進行させる。これだけでも稀有な優秀さと認めざるを得ないが、映画と観客が出会うための「映画祭の責任」を自らに問い、それに答えるように自身のリソースを使う態度こそ最も倣うべき点と思われた。できうる限りリスクは下げなければならないが、これをやらないのであればそもそもやる意味がないという一線は存在する。その実現のため、負うべき最大かつ最小のリスクを負うこと。これが知性というものではないか。これから帰る自国の現状を思うにつけ、その想いを強くせずにはいられなかった。

 


Hamaguchi Maske © ©  Hamaguchi Maske ©
【濱口竜介監督プロフィール】
東京大学文学部卒業後、映画の助監督やTV番組のADを経て、東京藝術大学大学院映像研究科に入学。在学中は黒沢清監督らに師事し、2008年の修了制作「PASSION」がサン・セバスチャン国際映画祭や東京フィルメックスで高い評価を得る。酒井耕監督と共同制作した「東北記録映画3部作」と呼ばれるドキュメンタリー群(11~13)や、4時間を超える長編「親密さ」(12)などでメガホンをとる。15年に発表した監督・脚本作「ハッピーアワー」では、ロカルノ国際映画祭やナント国際映画祭など、数々の国際映画祭で主要な賞を受賞した。商業映画デビュー作品「寝ても覚めても」(18)が、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出される。2020年のベネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を獲得した黒沢清監督の「スパイの妻」でも、野原位とともに脚本を手がけている。2021年ベルリン国際映画祭コンペティション部門で、新作映画「偶然と想像」が銀熊賞(審査員グランプリ賞)を受賞。続く第74回カンヌ国際映画祭では『ドライブ・マイ・カー』がコンペティション部門に出品され、日本映画としては初となる脚本賞ほか4つの賞を受賞した。