オープニング作品
フェモクラシー 不屈の女たち

ドイツ連邦議会の女性議員の歩みを、戦後からメルケル政権時代まで追うドキュメンタリー。

ジーパンで議会に立った緑の党の女性たち、中絶論争、反核運動――ドイツ連邦議会の女性議員の歩みを、戦後から現在まで追うドキュメンタリー。民主的な決定過程への参加を求め、成功と肩書の上にふんぞり返った男性たちを相手に闘った女性議員のパイオニアたち。セクハラと先入観に臆することなく野心的、そして限りない忍耐力で自分の道を追求する女性たちの姿が頼もしくウィットに富んでおり、勇気を与えてくれる。 
ジャーナリストでもあるケルナー監督は、アーカイブ映像を織り交ぜながら、当時の女性政治家たちにインタビューを行った。彼女たちの思い出話は、可笑しくも苦く、不条理で、時に恐ろしいほどに現在に通じるものがある。西ドイツの過去を多角的に振り返ることで、現在と未来に貴重な示唆を与えてくれる、洞察に満ち溢れた作品。

上映日程:4月20日(木)19時(オープニング)、4月23日(日)10時30分(上映後、映画に登場するクリスタ・ニッケルス元連邦議員とのQ&Aあり)

監督:トルステン・ケルナー
ドイツ、2021年、100分

アンゲラ・メルケル元連邦首相のコメント


不屈の女たち- 背景情報

ドキュメンタリー映画『フェモクラシー 不屈の女たち』では、西ドイツ時代からその後のドイツの歴史上の出来事に言及されていますが、映画の中ではその詳細までは触れられてはいません。そこでこれらの社会政治的な議論に関する背景情報を紹介します。

NATO二重決議

1979年、NATO加盟国が行った「NATO二重決議」は、ソ連による中距離弾道ミサイルの配備の増強に対抗して、西ヨーロッパ諸国にアメリカの新しい中距離弾道ミサイルを配備するというものであった。西ドイツでは、この決定が重大な政治的対立に発展した。
この決議をめぐる論争が、1982年、SPD(ドイツ社会民主党)とFDP(ドイツ自由民主党)の連立政権崩壊の決定的な要因となった。それ以前から、経済・社会政策の問題で連立政権のパートナーは互いに距離を置くようになっていたが、SPDの左派がNATO二重決議を拒否する一方、FDPはこれを押し通そうとした。最後に、当時のヘルムート・シュミット首相(SPD)が連邦議会の建設的不信任決議によって失脚し、ヘルムート・コール首相(CDU)に交代したが、それにはそれまで野党であったCDU/CSU(キリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟)だけでなくFDPの票が決定的な役割を果たした。この行動はFDP内でも強く批判され、約2万人の党員の脱退につながり、同党の政治的方向性の転換点とされる。
市民社会においても、NATO二重決議は、東西両ドイツにおける平和運動の高まりの発端となった点で、ドイツでは大きな意味を持つことになった。この平和運動は、西ドイツでは1983年10月22日の大規模なデモでピークに達し、冷戦激化の脅威に対してドイツ全土で推定130万人以上が街頭に出たとされている。当時、西ドイツの政党の中で最も明確に軍縮を主張していた緑の党は、この平和運動をきっかけに多くの支持を集め、1983年3月に初めて連邦議会に進出し、政治勢力としての地位を確立した。

ペトラ・ケリー

ペトラ・ケリーは最初に連邦議会に進出した緑の党所属議員の一人で、1980年代には国内外ですでに平和運動の象徴的存在であった。それだけに、1992年、彼女のパートナーで党の同僚でもあったゲルト・バスティアンが、今日までも明らかになっていない理由によって、ケリーを銃殺し、自らも銃で命を絶ったことは世間を驚愕させた。

刑法218条

緑の党の最初の国会議員の一人がヴァルトラウト・ショッペである。1983年5月、連邦議会での最初の演説で、彼女は刑法218条を取り上げた。刑法218条「妊娠中絶」は、ドイツにおける妊娠中絶を処罰の対象としている。
ワイマール共和国以来、女性の権利活動家たちは、218条を無条件に削除すること、少なくとも妊娠3カ月以内の中絶については処罰を免除することを要求してきた。このことは、1970年代の女性運動の過程で、著名人を含む多くの女性が中絶したことを公に認めたことで、新たに注目されるようになった。1975年、SPDとFDPの連立政権が218条の改正を試みたが、立法府の人命保護義務により、連邦憲法裁判所においてこの改正は無効であると宣言された。
その後に続く試みも失敗したが、1995年にCDU/CSUとFDPによる「妊婦および家族援助法改正法(Schwangeren- und Familienhilfeänderungsgesetz)」が制定され、基本法(ドイツの憲法)に準拠した規制が適応されるようになった。妊娠中絶が原則的に違法であることに変わりはないが、妊娠12週以内で、規定に従ってカウンセリングが行われた場合、処罰は免れるというものであった。

リタ・ジュースムート

CDUの政治家リタ・ジュースムートも、中絶における女性の権利保護に取り組んでいた。もともと党の中核にいたわけではなかったが、1985年、ヘルムート・コール内閣の「連邦青少年・家庭・女性・健康担当大臣」に任命された後、エイズの感染流行に直面し、偏見に満ちた世論の中で、当時としては異例の啓発キャンペーンやカウンセリングに力を入れた。
高い人気を誇ったジュースムートだが、CDU内部での評価は分かれ、家庭相としてのキャリアは、1988年、連邦議会の議長に選出されたことで突然終わることとなる。こうしてその後10年近く、彼女はドイツで2番目に高い国家権力の座に留まることになったが、実はその地位に体よく祀り上げられたと考える人も多かった。いずれにせよジュースムートは政治家としてのキャリアを通じて、CDUの方針を繰り返し批判し、党首ヘルムート・コールをはじめ他の党幹部の不興を買い続けた。

《国防軍の犯罪》展

1995年、ハンブルクで巡回展《殲滅(せんめつ)戦争 1941年から1944年までの国防軍の犯罪》展が幕を開けた。それまで広く流布していた、第二次世界大戦におけるドイツのSS(ナチス親衛隊)による犯罪的行為に主眼を置いた語り口とは対照的に、この展覧会は、国防軍の兵士も殺人行為や人権侵害に加担したことを前面に押し出した。これにより、ナチスの戦争犯罪にドイツ国民が参加したことが、あらためて世間に注目されることになった。
その後、殲滅戦争における国防軍の役割について感情的かつ敵対的な議論が行われ、ナチスの過去との取り組みが、1990年代後半においてもなおドイツで進行中のプロセスであることが示された。1997年、「同盟90/緑の党」は、連邦議会でこの展示を行うよう要求したが、左派のPDS(ドイツ民主社会党、東ドイツにルーツを持ち、現在の左翼党[DIE LINKE]の前身)を除いて、他のすべての議会政党(CDU/CSU、SPD、FDP)がそれに反対を唱えた。
連邦議会では異例ともいえる個人的で感情的な議論が展開された。最終的には、国会内の部屋で展示を行うという動議は大多数の反対により否決されたが、この時、異なる立場を標榜する、時には非常に個人的な議論が行われたことは、今でもドイツ議会史の偉大な瞬間とみなされている。

出典
https://www.bpb.de/kurz-knapp/hintergrund-aktuell/280816/vor-35-jahren-bundestag-bestaetigt-entscheidung-zum-nato-doppelbeschluss/
https://www.bundestag.de/webarchiv/textarchiv/2012/40797914_kw40_misstrauensvotum_kalenderblatt-209576
https://www.hdg.de/lemo/biografie/petra-kelly.html
https://www.bpb.de/kurz-knapp/hintergrund-aktuell/201776/1975-streit-um-straffreie-abtreibung-vor-dem-verfassungsgericht/
LeMO Biografie Rita Süssmuth (hdg.de)
https://www.bpb.de/kurz-knapp/hintergrund-aktuell/244026/vor-20-jahren-eine-ausstellung-ueber-verbrechen-der-wehrmacht-polarisiert-deutschland/