インタビュー:オリファー・ガイヤー
「私たちにはエコロジー的な新しい生き方が必要だ」
アンドレアス・ヴェーバーは、自分が自然に対して非常に情緒的な関係を持っていると公言する。哲学者であり生物学者であるヴェーバーは、例えばベルリン・グルーネヴァルトにある1本の決まった木を定期的に訪ねる。その木とヴェーバーは、本物の友情で結ばれているのだ。通常であれば、私たちはこの対話を森の中を一緒に歩きながら行っただろう。だがコロナのためにそれは断念し、代わりに私たちはビデオチャットで待ち合わせた。
Fluter.de:人類がその環境と全く新しい関係を作り上げることを望んでいらっしゃいますね。どのような関係をお考えなのですか?
アンドレアス・ヴェーバー:中心にあるのは、相互性の原則です。これは、人間が広い意味での関係性を作り上げる能力として理解されるものです。つまり他の人間との関係だけでなく、地球上の他の生物と有機物との関係ですね。私は、私たちが自身を再び世界生物共同体の一部と位置付け、皆の必要性を考慮する相互性のエコロジーの中に参加することを望んでいます。
ずいぶんユートピア的に聞こえますね。
つまり、それは不可能なことを美しく夢見ているだけだ、と暗におっしゃっているわけですね。そうではありません。これはもう一つの共生形態のビジョンなのですよ。これは確かにユートピアでしょう。このユートピアは、全くどうしようもないほどにうまく行っていないものを変えるためには、私たちには模範となるものが必要なのだという経験から生まれたのです。
何が「うまく行っていない」とお考えですか?
人間は、世界生物共同体に属する他の全ての有機物の上に自分を置いています。そして、それら有機物が持つ必要性を無視し、それらを大規模に搾取しています。今の私たちの世界の、あらゆる分野におそらく最も欠けているのは、相互性なのです。西洋の文化において、私たちは何よりも私利私欲を追求し、他者のことは無視することにかかりきりです。そして自分自身が及ぼす効果にひどくこだわっている。それに対し、多くの先住民族文化は、エコロジー的な相互性が維持できる生活を送っています。だから、私はこれを「先住天才性」と名付けています。私たちに必要なのは、それを指向する新たなエコロジー的な生き方なのです。「他の存在についての私たちの情緒的な感覚を、再びまじめに考えるようにしたい」
多くの先住民は、アニミズム的な観念も持っていますね。彼らは他の生き物に対し、それらが人間であるかのように接し、そして木々や山々とコミュニケーションを取る。私たちもそれを取り入れるべきなのでしょうか?
私たち、いわゆる西洋人は、先住民は自然に近い生き方をしているからと、この人々が注目すべき知的業績をあげていることを見落としがちです。例えば太平洋の多くの諸民族が有している複雑な口承伝統や、彼らが技術的な補助手段を持たずに何日も外洋を航海した技を考えてみてください。アニミズムはこうした文化の一部に過ぎません。実際のところ私は、現代の先進工業国に暮らす人間には、新たな形のアニミズムが必要だと考えています。つまり、他の生き物が一種の意識を持っていることを原則的に認めるアニミズムです。私の考えではこれは動物に限りません。植物も、それどころか山もそうです。これは、そもそも私たちの存在のあり方は、基本的に私たちの周囲の世界のあり方と変わらないのだという単純な認識に基づく考え方です。私たちは、これらの他者を再び主体として認め、彼らに同等な権利を認めなけばなりません。
それは本当にユートピアなのでしょうか?先住民族の自然と結びついた生き方を想起することのように聞こえますが。
私は自然と結びついたこの生き方に単に回帰したいわけではありません。自分たちが思っているほどに昔が素晴らしかったわけではないことは、私たちもしょっちゅう痛感します。しかし私は、 他の存在についての私たちの情緒的な感覚を、再びまじめに考えるようにしたいのです。簡単な例を挙げましょう。「エコ」ラベルがついているけれども相変わらず工業的な養鶏業を目にします。養鶏業の目的は、鶏を製品として大量に増産し販売することです。それを目にしたとたんに、私にはこの生き物たちの具合がよくないことがわかります。一緒に暮らしている宇宙を実り豊かなものに保つために私たちに必要なのは、この感覚なのです。
一部だけですね。私の目から見ると、こうした運動はまだ古い枠組みに囚われている感じがします。つまり、人間と非人間、つまりは「自然」を、お互いに切り離してしまっている。逆説的なことに、持続可能性という考え方にまさに欠けているのが、私たちはたった一つの世界を全ての生き物と共有しているのだ、というより深い感覚なのです。持続可能性という言葉は林業から生まれたもので、森林の経済的な利用を意味しています。つまり、森林の経済的利用が今後も際限なく続けられるように、ということですね。つまり、こうした持続可能性のコンセプトは、基本的に効率性を考えるものなのであり、言ってみれば単に、経済的思考を好意的に表現したものに過ぎません。同時に、特に「フライデーズ・フォー・ フューチャー」には、若者に特有の本物のエネルギーがある。しかしそこでもまだ、自然は私たちが救わなければならない偉大な対象なのだ、という考え方が支配的です。
「私たち人間が自分自身を自然とは異なる存在だとみなしている限り、私たちは本当の相互性を築くことも、政治的な問題に関して連帯を築いていくこともできない」
それの何が間違っているのでしょう?自然を救う必要はないとお考えですか?
私たちがそもそも「自然」という言葉を口にすること自体が、私にとっては問題の一部なです。いわゆる自然とは、実際のところ、相互性の中で発展していく生きた全体性です。そして私たちは、その中に最初から含まれている。そのことを、私たちは再び認めなければなりません。私たち人間が自分自身を自然とは異なる存在だとみなしている限り、私たちは本当の相互性を築くことも、政治的な問題に関して連帯を築いていくこともできません。私たちは、「人間」対「自然」という二元論に囚われてしまっている。これは、自然をモノにしているのです。モノ、つまり、人間が利用でき、搾取でき、濫用できるものにね。そういえば本当に顕著なことですが、私の知る先住民族が「自然」という言葉を使うのを聞いたことがありません。
世界を対象として見る合理的な見方は、啓蒙主義から生まれたものであり、また、近代の自然科学のものでもあります。それをなくす方がいいと?
私自身、生物学を学んだ生物学者です。この見方は決してなくしたくはありません。自然科学とは、正しく理解するなら、物事を常にありのままに見ることなのです。それがどれほど重要なことであるかは、このコロナの時代に特にはっきりとわかりましたね。ただ、自然科学による世界へのアプローチ法、つまり、測って、数えて、観察するという方法が、私たちが観察するものは全てモノである、というイデオロギーに完全に乗っ取られてしまっているのです。科学自身もこのイデオロギーを強力に推進したということは否めません。しかし、私たちがそもそも科学を実践するのは、例えば動物に魅了されるからで、動物を主体として認識したからです。この点を完全に除外するのは、自然科学のコンセプト面での大きな失敗でした。その結果、自然科学は、純粋にモノから構成される世界という歪んだイメージを作り出しているのです。
科学的認識はもちろん真剣に受け止めなければなりません。しかし、見方を広げる必要があります。気温上昇や二酸化炭素濃度などの測定データだけに焦点を当てることは、相互性という観点を切り詰めて見誤らせるものです。私たちが共有する呼吸の空間としての大気は、相互性の空間に他なりません。気候危機を、総体としての環境危機と切り離すことはできないのです。気候について論じる時には、熱帯雨林のカエルについても論じなければならない。生きた全体性をより強く意識し、新たなアニミズムを導入することで、気候運動はもっと大きなテコ入れ効果を出せるはずです。
そうですね、しかし、同時に大切なのは、他の存在に対してとても慎重な関係を作り、全体的な繁殖能力を維持することなのです。先住民族の神話や儀式にも、彼らが狩りの対象である動物と調和の取れた関係を築こうとしていること、それどころか許しを請おうとしていることが見て取れます。私は何もロマンチックに描いてはいません。いずれにしても、「ロマンチック」あるいは「自然ロマン」などの概念には注意が必要です。そういう言い方で、ドイツ語圏では、真実や世界への情緒的なアプローチも必要なのだという事実が感傷的だとして切り捨てられ、皆が再び経済的な利用というロジックに専念できるようになるのですから。
「地球をその全体性のなかで知覚できれば、私たちは個々の兆候をつつき回さずに済むだろう」
この「新たなアニミズム」は、気候というグローバルなテーマとの関連でどのような姿をとることができるでしょう?
アメリカの生物物理学者ジェームズ・ラブロックは、いわゆるガイア理論を唱えています。それによれば、地球そのものが一種の大きな生命体として捉えられ、その生命体は自己組織する多くの個別有機体から構成されています。つまり、ひとつのダイナミックなシステムが、総体的な生物圏として安定を保っているのですね。地球をこうした全体性の中で知覚し、それにエンパシーを感じるなら、私たちは二酸化炭素量や気温上昇などの個々の兆候をつつき回さずに済むでしょう。複合的な病状をより明確に把握できるようになり、生命体全体とより良い協力関係を作る努力ができるはずです。
誰でも自分のことから始められます。ヨーロッパ人は帝国主義で多くの国と民族を植民地化しましたが、そこではアニミズムがまだ強く生きていることが多かった。ヨーロッパ人はそれだけでなく、私たちの心の中までも、ある種の支配的な世界観に従属させたのです。この内なる植民地化のなかで、不可能とされて撲滅された一つの中心的な心的能力がありました。それは、現実と情緒的な接触を持ち、全ての生き物の共同体が本当に必要としているものが何であるのかを知る能力です。これは、不条理だ、ユートピア的だ、客観的でない、感傷的だとされました。それでも、まだ手がかりは残っています。人間の動物に対する愛情は、部分的にまだはっきりと残っています。それはいわば、今の私たちにまだ残されているアミニズム的な「残高」です。森に足を踏み入れる際にも、私たちはこの相互性の関係のなかに入り、それに魅了されることを感じます。このことは、ホモ・サピエンスとは元々、ホモ・ビオフィロスであったことを示しています。つまり、生命を愛する人間です。私たちひとりひとりは、この直観に再び発言権を与えることができるのです。
「エコロジー的な生き方」という概念の魅力を読者に訴えるとしても .. 私たちは快適なことの多くを諦めなければならないのでしょうか?
相互性とは、他の存在と彼らの必要性のためにもっと場所を空け、私たちが人間としてこの惑星上で際限なく場所を取らない、ということです。もちろん、そのために手放さなければならないことはあります。しかし、私たちがこれまで通りに続ければ、私たちが失うものは長期的にもっと多くなるのです。それに私は、こうして諦めることがそれほどひどいこととは思いません。自給自足経済を有する文化についての報告のほとんどからは、そこに暮らす人々の満足度がかなり高いことがわかります。彼らの生活は比較的厳しい制限の元にありますが、しかし、彼らが幸福であることは、人間が根本では協力と配慮に向いている存在なのだということのしるしです。私たちのあり方がそこから逸脱していることを、私は文化的に間違った道だと考えています。先住民族の生きることに対する満足感には、彼らが死と苦しみという事実の前から、私たちのように逃げ出したりせず、それを心安らかに受け入れていることも含まれていると私は思うのです。パンデミックのおかげで、私たちは否応なしに、少なくとも自分たちの同種に対しては相互性という掟をこれまでよりも考慮することを余儀なくされています。ここから何かプラスのことが得られるとするなら、これが私たちにいずれにしても緊急に求められている変化に対する良い練習になったということでしょう。