エッセイ
ホーフハイムの子供十字軍
1968年春、わたしはアビトゥーアの真っ最中に、「社会主義ドイツ学生同盟(SDS)」の生徒組織「社会主義自主的生徒行動中枢(AUSS)」の代表をつとめていた。わたしたちは、ベトナム戦争やギリシアの軍事クーデター、非常事態法に抗議の声をあげただけでなく、大幅な学校改革も要求し、18歳になったら授業に出るか、それとも、もっと大切なことに時間を当てるかを自己決定できるという改革を本当にわが校で実現したのである。
われら革命闘争の同志たちは、週2回、校外の同志とのアナーキスト会合で会っていた。わたしがアナーキズムに共鳴したのは、分厚い『資本論』を何巻も読む気がしなかったせいである。というわけでマルクス/エンゲルスではなく、バクーニン、シュティルナー、クロポトキンのもっと手頃な著作を読んだのである。
わたしたちは授業に出ず、フランクフルトのSDSの事務所にたむろし、アドルノの講義も聴きに行った。講義はよく理解できなかったが、なんだか重要なことのように思えたものである。アビトゥーアの筆記試験では、半年間ずっと数学の授業に出なかったことを後悔せざるをえない状況になってしまった。カンニングも書き写しも不可能で、わたしの点数は最底辺をさまよっていたはずである。
かといって落第するわけにはいかなかった。そうなるとまた連邦軍と厄介なことになるからだ。わたしはもう二度も、徴兵を逃れるためにカプタゴンとアルコールの中毒状態で適正検査に臨んでいたのだ。この状況では、口頭試験の予習をするのが何よりも最優先事項となった。だが1968年の4月と5月にあの一連の事件が起こり、わたしたちは学業を放り出し、街に出てデモをすることになった。
体制に対する闘争
それまでわたしたちは、アメリカ軍がベトナムでやっていた戦争に抗議するデモも平和的にやっていたし、2月13日に脱走兵がフランクフルトの路上でアメリカ憲兵に撃たれたときもそうしていた。ギリシア軍事独裁政権の支持者に対しても、彼らがドイツの警官の目前でわたしたちに棍棒で殴り掛かってきたにもかかわらず、大体は平和的に対峙したものだ。4月4日のマーティン・ルーサー・キング暗殺直後のデモも平和的なものだった。その前々日、アンドレーアス・バーダーやグードルーン・エンスリーンたちがフランクフルトのデパート二軒に放火した事件が起こり、わたしたちの間で賛否両論の激論が交わされていたせいでもあったと思う。だが4月11日のルーディ・ドゥチュケへの狙撃事件で事態は急変することになる。わたしは行き場のない怒りを抱え、次のフランクフルト行きの電車に乗った。駅はデモ参加者でごったがえしていた。街の中心部に通じる道が、警官の隊列と柵で封鎖されていたからだ。若い警官の一人がわたしのことを不潔なヒッピー呼ばわりしたので、わたしはこの警官に音響効果抜群の平手打ちを食らわせ、デモ参加者たちは柵を乗り越えようとしはじめた。そのとき、わたしの右腕が柵に挟まってしまい、殺到するデモ参加者たちを抑えてくれた若い警官たちのおかげで、腕を解き放ち、挫傷と腫れを抱えながら、なんとか逃れることができた。
学生たちの怒りの矛先は、計画的な煽動記事でドゥチュケ狙撃を焚き付けた「ビルト」紙を出版しているシュプリンガー社に向けられた。わたしたちは何日間も「ビルト」紙の配送をバリケードで阻止したし、警察の騎馬隊の介入や放水にも耐え抜いた。
「あの石頭たちの正体を暴いてコケにするのが、われらホーフハイム・アナーキスト・クラブの使命」
だが敵は「ビルト」紙だけではなく、わたしたちを口に泡を吹かしながら罵倒するよろしき市民や政治家もそうだった(フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスはわたしたちのことを「ドブネズミ」、「人間のクズ」などと呼んだ)。敵のなかには社会民主党(SPD)に深く根を張った政治家さえいた。こうした石頭たちの正体を暴いてコケにするのが、われらホーフハイム・アナーキスト・クラブの使命となったのである。わたしたちのお気に入りの仇敵は、非常事態法の熱烈な支持者で同郷のヘルマン・シュミット・フォッケンハウゼン(社会民主党)だった。わたしたちは何カ月もの間、シュミットが地元団体の催しに姿を現すたびに、つきまとったものである。シュミットは頭に血が上りやすい性格だった。
かつて15歳のとき、わたしは地元のスポーツ団体の旗手としてある葬儀に参加させてもらったことがある。そのときシュミットが弔辞を語ったのだが、いつまでたっても終わらなかった。これがあまりに長ったらしく、旗があまりに重くなってきたので、わたしは党友シュミットの薄くなった頭髪を旗の端でさすったところ、彼の顔が怒りで首筋から髪の生え際まで赤くなっていくのが見えた。このときは、彼は怒りをこらえたものだ。わたしは自分の役目をそれ相応に真面目に果たしていたので、誰もわたしに悪意があるとは疑ってなかったからである。
わたしたちは、シュミットが出席する催しに訪れるたびに、彼の留まることを知らない激怒を挑発することに成功、皆に受けたのは大体わたしたちのほうだった。たしかにわたしたちの質問は厚かましかったが、礼儀は保っていたからだ。たとえばこんな風である。「党友シュミットさん。非常事態が起こったさいには、政府の地下シェルターに自分の席を確保してあるんでしょうね?」「なんていう質問だ?!」「万歳の雄叫びと共に世界が破滅するときのことですよ。そんな事態になれば、反対の声を上げる人間も必要なくなりますね」。わたしたちの目標は、シュミットを小選挙区選出の候補にしないことであった。それが一年後には党の内紛を招き、そのときシュミットが何度も嘘をついたことを、わたしはようやく50年後の今知った。それとも単に忘れていただけかもしれない。
ストライキと蜂起
「歓迎委員会のメンバーは、栄えあるドイツ革命伝統に従い、規定通りに駅の入場券を購入、自動車デモは信号が赤に変わるとすぐさま停止し、青になると「ホー・ホー・ホーチミン」と唱えながら前進する様は感動的ですらあった」(ロルフ・ツンデル、『ディー・ツァイト』紙1968年第20号)
5月30日、非常事態法は、元ナチの首相クルト・ゲオルク・キージンンガーの大連立政権のもと、一括法案として議会を通過することになっていた。ドイツ労働総同盟の首脳部は、ゼネストをしないことに決定したが、一部労働組合員は、ストライキに突入した。
わが「社会主義自主的生徒行動中枢(AUSS)」の成員は、満場一致でストライキに参加することに決定。休み時間に、校庭にアンプを設置し、筋金入りの同志とは言えなかった同級生で隣町の町長の息子が、町役場からメガホンを借りてきてくれた。こうしてわたしたちは、生徒たちに授業を放棄し、デモに参加するよう呼びかけたのである。何人かの教師は、教室のドアに立ち塞がり、クラスがわたしたちの呼びかけに応えるのを阻もうとしたが、これら教師は、わが即席出撃班により、お手柔らかに排除され、無害な嘲笑を浴びせかけられた。こうして低学年から高学年まで全校生徒のほぼ全員がデモに加わり、驚いたことにキューレンツともう一人の教員も参加した。この二人は、あとで懲戒処分を食らうことになる。そして地元警察のたった2台の車に伴われ(というのは、一部顔見知りだったホーフハイム警察の数少ない職員は、増援が必要になるとは夢にも思っていなかったからだ)、われらのデモは歩みを進めはじめた。「市民のみなさん、黙って観てばかりいないでデモに加われ」とのスローガンを何度も唱え、メガホンで非常事態法により民主主義の基本的権利が制限されると呼びかけた。
2度目の長い休憩をとるとき、わたしたちは職業学校にちょうど到達、その教員と生徒にデモに加わるよう求めた。何人かの生徒は好奇心から、あるいは、そのほうが早く家に帰れるからという理由で参加したのだが、教員のほうは大体において消極的で、なかには好意的ながらも、からかいを交えて、われら子供十字軍をまともに相手にしてくれない者もいた。まったく異なった展開となったのは、地元の基幹学校(今の実科学校)である。そこでは用務員がわれらの行く手に立ち塞がったのだ。というわけで、わたしの当時15歳の背丈のある従弟が級友たちとスクラムを組み、どの生徒からパンチを食らわせようかと迷っていた哀れな用務員を建物の内部に押しやった。校長室の前では、弱々しい男の校長と逞しい体つきの女の秘書が、わたしたちが事務室に入って校内放送のマイクを手にするのを阻もうとした。両人は生徒の群れに取り囲まれ、生徒たちは憤慨した秘書のパンチを笑いながら甘受したが、わたしたちのほうが手を出すことはなかった。校長は、校内に押し入られたことでひどく興奮し、発作寸前の有様だった。わたしは校内放送で授業が打ち切られる旨を告げ、教員と生徒にわれらの抗議の行進に加わるよう求めた。こうして地元警察にエスコートされながら、10歳から18歳までの1000人に及ぶ生徒がホーフハイムの旧市街を練り歩くことになったのである。そうこうするうちに、非常事態法が可決されたという知らせが伝わってきた。「裏切り者は誰か?社会民主党だ。正しいのは誰か?カール・リープクネヒトだ」と、わたしたちは黄色い声のシュプレヒコールで気勢をあげた。それは生徒たちのかなりの部分がまだ変声期前だったせいだが、とにかく彼らはカール・リープクネヒトが何者かも知らなかった。いっぽう抗議行動の発起人たるわたしたちのほうは、デモ中ずっと、これが未成年に対する一種の誘惑行為になりかねないことはまったく念頭に浮かばなかった。
「革命がヘッセンの田舎で頓挫したのは、社会民主党や不十分な労働組合の連帯だけではなく、ドイツの歴史ではよく起こるように、バスや電車の時刻表のせいでもあった」
さて、わたしたちはエリーザベト学校に到達、この学校で授業を担当している尼さんたちが、抵抗の用意はできていると言わんばかりに腕を大きく広げて窓辺に立ち、待ちかまえていた。その姿を、わたしたちのみならず、同行してきた警官たちも面白がったものである。わたしたちはこの学校を占拠するのをやめることにしたのだが、それを尼僧学校の生徒の一部が残念がっているようにも見えた。だがどっちみち、そろそろ学校が終わりになる時間だ。デモに参加した生徒の多くは、近隣地域からの遠路通学者で、バスに乗り遅れないようにしないといけない。革命が、ヘッセンの田舎で頓挫したのは、社会民主党や不十分な労働組合の連帯だけではなく、ドイツの歴史ではよく起こったように、バスや電車の時刻表のせいでもあったのである。というわけで、呼びかけに応じ、わがギムナジウムの講堂でおこなわれた締めを飾るティーチ・インに集まったのは、100人にも満たないコアな同志たちだけだった。この最後のイベントには、校長と教員の一部も参加したが、わたしたちを告訴すると息巻きながら、ティーチ・インを思わせぶりにボイコットする教師もいた。
わたしはデモでいい気分を味わったことがない。それは放水車や催涙弾だけのせいではなかった。隊列を組んで行進したり、スローガンを唱えたりするのは、わたしの性分に合っていないのだ。そのうえ、わたしには弁舌の才がまったくなかった。でもこの日は、ストを呼びかけ、デモにつきあい、今度はこの最後のイベントで、ほかの二、三人の首謀者と共に自由弁論をしなくてはならなくなった。それでも当座のところは、いい感触を覚えたものだが、わたしたちの結論は幻滅させられるものだったし、それは自己批判でもあった。わたしたちは皆、闘いに敗れただけでなく、労働組合も住民も味方につけることができなかったと痛感していたのである。その結果、議会外反対勢力(APO)は、ばらばらに分裂してしまうことになり、なかには地下で活動するグループも出現した。
因習打破
この晩の最後は、緊急招集された保護者協議会で、その狙いは、わたしとこの保護者協議会の議長の息子を放校処分することだった。目的を知らずにメガホンを貸してしまった隣町の町長は、わたしたちに「ろくでなしの坊主どもめ、まず教えてやることがあるわい」と、汚い雑言を浴びせかけたが、わたしたちは静かに礼儀を保って対応したものだ。わが校の校長は、わたしたちに自分たちの動機や行動理由をレポートで詳細に説明させたらどうかと提案してくれた。そして遅ればせながら50年後の今、わたしはそうしている。基幹学校の校長のほうは、この学校を占拠した数日後に亡くなってしまった。たぶんあまりに興奮したのが死因になってしまったのだろう。私訴原告人が告訴したが、これは取り下げられた。だからといって、罪悪感から逃れられるものではなかった。
翌週、わたしは多少の予習さえしないままアビトゥーアの口頭試験を受けた。まったく見当もつかず予習も皆無で、いわば丸裸で試験官の前に立っている夢に、わたしは何年経っても悩まされたものだ。数学の筆記試験は悲惨な結果に終わったし、わたしの悲劇に同席していた級友たちは、お手上げの仕草をしたものだ。にもかかわらず、わたしはアビトゥーアに受かってしまった。わが校長は、証書授与のとき「君に留年してもらうと、この学校は一年も持たないだろうからね」と、おどけてわたしの耳に囁いたものである。
証書授与式は、騒乱状態で終わりを告げた。学校コーラスの招待はわたしたちのほうで取り消してしてしまっていたし、来るはずだったジャズ・バンドも来なかった。来賓席の最前列には、シュミット・フォッケンハウゼンが陣取っていたが、彼は腕にギプスをはめていたので「デモに参加なさったんですか」と尋ねられる有様だった。会場はうだるような暑さで、「社会主義自主的生徒行動中枢」のメンバーでアビトゥーア合格者の3人の女子生徒は、ジーパンにTシャツの軽装で証書の紙切れを取りに現れ、スーツの正装に身を固めて汗まみれの父母たちからブーイングを浴びせかけられた。わが両親は、息子を来させまいとし、代わりに証書を受け取ろうとしたのだが、わたしが姿を現すと早々に退散してしまった。シュミット・フォッケンハウゼンは。翌日「フランクフルター・アルゲマイネ」紙だったか「フランクフルター・ルントシャウ」紙に、わたしたちのアビトゥーア証書を剥奪すべきだと投書、それに対し、わが校長は、自分たちの教育使命は、生徒にスーツ着用を調教することではないと応戦してくれた。