対話の軌跡
大江健三郎とギュンター・グラス

大江健三郎とギュンター・グラス――対話の軌跡
大江健三郎とギュンター・グラス――対話の軌跡 | 写真:© Goethe-Institut Tokyo 2015

2015年4月13日、ギュンター・グラスの訃報が世界中を駆け巡った。享年87。直前まで元気な姿が伝えられていただけに、世界各国のファンは驚き、深い悲しみにひたった。日本でこの知らせを聞いた大江健三郎氏もその一人であった。

大江氏は、長年にわたるグラスの友人だった。1978年には日本で、1991年にはドイツのフランクフルトで対談を行い、戦後50年の節目にあたる95年には新聞紙上で往復書簡を交わした。実は大江氏は、悲報に接する直前、グラスとの往復書簡を再開させようという提案を書いていた。再生可能エネルギーや脱原発などの日本における喫緊の問題についてグラスと意見を交換し、連携しようとする意図があったという。

大江氏はグラスと何について語ろうとしていたのであろうか。10月29日の追悼講演は、その果たされなかった対話に代わるものになるだろうが、われわれは二人の対話の軌跡をたどることによってこの講演に備えたい。1991年の対談と1995年の往復書簡では、次のようなことが述べられていた。

文学における地域性と多様性

大江健三郎は愛媛県の深い森の中に生まれ、この故郷を繰り返し小説で描いている。一方のグラスはバルト海に面した自由都市ダンツィヒ(現ポーランドのグダンスク)に生まれ、戦後は家族とともに故郷を追われ、西ドイツに移住した。

山と海という違いこそあるものの、ともに中心から遠く離れた周縁で生まれ育ったことが両者の文学を決定づけ、政治的にも文学的にも大きな影響を及ぼした。

実際、78年と90年の対話においてもこの故郷が対談において重要な話題の一つとなった。グラスは78年には大江と四国の彼の故郷を訪ね、まだ日本にこのような神話が根づいた土地があることに感銘を受けた。同時に東京との大きな違いに驚いてもいる。大江も自ら初めて東京に来た時の違和感に触れつつ、「日本人は、本当に日本の中にある異質なものを発見していないと思います」と述べる。われわれは四国の森の中にも、沖縄にも独自の文化があることを忘れているというのである。「日本人がやらなければいけないことは、自分の中の異質なもの、多様性を発見して、それを日本文化の新しい力とすることだと思います」。「私は、ある国民が強いということは多様性があるからこそで、多民族的である、複雑な要素を持っているということこそ、真に強いことの要素だと思います」。

私たちは焼け跡の子どもです」

Hiroshima Noto Hiroshima Noto | 写真:© Hiroshima Noto von Kenzaburo Oe
グラス(1927年生まれ)も大江(1935年生まれ)も、8歳という年齢差はあるものの、少年時代に悲惨な戦争と敗戦を体験した。二人の文学の原点がそこにある。
「親愛なる友よ、私たちはますます老いていきながらも、なお焼け跡の子どものままです」とグラスは往復書簡で大江に呼びかける。このふたりの子どもの姿は、大江が衝撃を受けたグラスの『ブリキの太鼓』のオスカルにも重ね合わせることができるかもしれない。
17歳で戦争に参加し、深い傷を負って病院に運び込まれたグラスは言う。「私自身、ちょうど戦争の終結によって偶然生き残ることができた。その中で、常に亡くなられた方たちの代わりに書いている」と。

こうした流れから、アウシュヴィッツの後に文学は可能かというテーマについても話される。グラスは言う。「アウシュヴィッツによって、われわれの文明のプロセスに亀裂が入ったということをアドルノは言おうとしたのです。私たちの世代は、このアドルノの言葉に非常に悩み、この言葉と闘いました」。作家はこれに対して、書くことを通じて戦うのである。大江はこのグラスの言葉に共鳴しつつ、それを日本に当てはめて、例えば広島について書いてきたと述べる。

政治との関わり

大江もグラスも政治に深い関心を持ち、積極的に活動する作家として知られている。グラスは1960年代の後半からSPD(ドイツ社会民主党)支持を表明し、ヴィリー・ブラントへの応援演説を中心に、10年間ほどは政治運動に明け暮れた。2006年には自伝的小説『玉ねぎの皮をむきながら』で、17歳の時にナチス親衛隊員であったことを60年後に告白し、世界中が騒然となった。3年前には、ドイツ人としてはタブーであったイスラエル批判を公然と行い、大きな非難を巻き起こしたことも記憶に新しい。

大江氏もまた若いころから広島や沖縄に足を運び、『広島ノート』や『沖縄ノート』を著して戦後民主主義を根本的に問い直し、最近では脱原発を訴え、憲法第9条を守るために演説などの活動をしていることは周知のとおりである。
しかし大江もグラスも作家であり、これらの政治的問題は、いかにして物語るかという文学における「ナラティヴ」の問題とかかわってゆき、客観的な事実とは異なる、「独自の意味づけ、方向づけ」が行われていることを見逃してはならない。
「グラスさんのナラティヴの特徴というものは、過ぎ去った時に逆らって書く、しかも同時代というものを書くということだと思います。(…)グラスさんに学んで、私は自分のナラティヴのひとつを発見したとも思っています」。
グラスは長編『犬の年』において、「物語る限り生きてゆける」と述べたが、この言葉は二人の文学の核心にあるといえるだろう。

戦後50年から戦後70年へ

戦後50年にあたる1995年、二人の対話は新聞紙上で往復書簡というかたちで続けられた。ここでも共通のテーマとなるのは、まず戦争の記憶とその「ふさがろうとはしない傷」である。
この往復書簡では、戦後の「民主主義の世界に向けて生き延びたいという意志に突き動かされてきた」二人の心がしっかりと連携をとりつつ、当時の政治状況を憂い、ますます声を大にして、警告しているように見える。話題となるのは、戦争中のさまざまな記憶、例えばドイツ国防軍の脱走兵(グラスによれば彼らこそが真の英雄であった)や理不尽な虐殺にはじまり、50年後もくすぶり続ける戦争責任、広島と長崎の原爆、天皇制や、従軍慰安婦、さらにはフランスの核実験にまで及んでいる。
 
もちろん、これらの言説の一部分だけを取り上げ、表面的に受け止めてはならない。二人の膨大かつ深遠な文学作品を絶えず参照しながら、その「語り」の中で慎重に読み解いていかねばならないことは言うまでもないが、大江氏が「憲法改正をあらためて打ち出す勢いも現にあります」と書くとき、彼はすでに20年後を見抜いていたようにも思われる。
このような意味で、現代の混沌とした世界を「生き延びる」ためには、大江とグラスの文学をもう一度虚心に読み直す時期に来ているのかもしれない。今回の講演はそうした絶好の機会になるに違いない。