テレツィア・モーラと土屋勝彦の対話
神の背後にある世界
土屋勝彦教授(名古屋学院大学)は、ドイツ文学、とりわけドイツ語圏のトランスナショナル文学を専門とする。ハンガリー系ドイツ人作家テレツィア・モーラの作品も長年にわたり研究しており、モーラについての著作も多く発表している。このインタビューは作家と研究者の間に築き上げられてきた密接な交流を土台に、土屋が2020年9月に書面でモーラに対して行ったものである。
今年は新型コロナウィルスのために、新しい「国境線」が生まれてしまっています。この新しい「国境線」に従うことは、あなたにとってどれほどの痛みを伴うものでしょうか?
私にとっては、耐えることがとても困難な状況です。私は幸いにも、旅をする習慣がある人間ではないけれど、それでも、普通なら1年のうちに何回か旅行をしなければならないのです。仕事をして、学んで、調査して、そして家族に会うためにね。新しい小説の舞台が、まだひとつも訪問できていないのです。
おそらくはそのために、小説の完成は予定より1年遅れるでしょうね。それと、ハンガリーを離れて30年経ったけれど、今初めて、自分が亡命者だという感覚に襲われています。今までは、好きな時にいつでも帰ることができました。でも今は、役所の慈悲にすがらないといけない。ここ数年来ずっと考えていた新しいプロジェクトがあるのですが、そのプロジェクトについても別の視点が見えてきたと感じています。一人の女性について書こうと思っていたのです。自分の意志で、もう家から一歩も出ないと決めた女性。この物語の持つ意味は、パンデミック下の今では、当然ながら全く違う意味を持つことになるでしょう。
2020年11月22日と23日には、東京で開催されるヨーロッパ文芸フェスティバルに参加することになっています。今年はパンデミックの影響を受けてデジタルイベントして開催されるこのフェスティバルのテーマは「新しい世界、新しい出発」です。このテーマに関して、あなたは今どのような立ち位置にいるでしょうか?
新しい世界というものは、存在するのでしょうか?それは実は、常に古い世界だったのでは?常に同じ問題が繰り返し現れてきていたのでは?私たちは常に、自然、自然の力、病気、戦争、コミュニケーションの問題、不正と戦ってきたのではないのでしょうか?あらゆる形態の暴力と狂気と?そして私たちは繰り返し、私たち自身と私たちの世界を新たに作り上げることにゼロから取り組んだのでは?私たちの中の少なからぬ人たちには最良の意図があったけれど、そんなことはつゆほども考えない人たちもいた。はっきり言いましょう。もっぱら破壊することしか意図していない人たちは、少なからず本当にいるのです。なぜなら彼らにとって想像しやすいのは、平時ではなくて戦時(比喩的な意味のものも含めて)にすべきことの方だから。ひどい大統領のもとでの8年間は、良い大統領のもとでの8年間よりも、私たちにとっては耐えやすいのです。なぜなら、善を求めることは、真実を求めることと同様に、とても大変だから。それは私たちに、あまりに大きい代償を求めるのです。嘘やルサンチマンの方が、はるかに扱いやすい。環境を破壊することは、環境を破壊しないことよりも、はるかに簡単なのです。
試しに、国境線の問題を例にとってみましょう。これは国境に囲まれて育ち、そのトラウマがある私にとって、重要なテーマの一つです。私の子供時代にそばにあったあの国境。あの国境ができて以来、それが唯一人間にふさわしいと感じられる形態で開放されていた期間は、きっかり8年間でした。2007年、私が生まれた国ハンガリーはシェンゲン協定に加盟し、それによって人とモノの自由な往来が可能になりました。ところが2015年、またもや検問が始まります。シリアやアフガニスタンなどの紛争地域から大量の難民が流れ込んできたためです。もうこれだけでも、個人の自由には十分に制限がかけられていたはずでした。ところがそこに、ウィルスまでやってきた。その結果、非ヨーロッパ人である難民や、他のヨーロッパ諸国出身者にとどまらず、その国に暮らす国民までもが影響を被ることになったのです。要するに、全員です。私には、国境を思い通りに開けたり閉めたりできるというこの遊びを権力者が楽しんでいるように見えます。このシェンゲン協定なるものは、彼らにとってはそもそもの最初からうさんくさいものだったのですから。私たちは今後も、権力者の慈悲にすがることになるのです。はっきり言ってしまいましょう。でも同時に、私たちが抵抗のために持っている手段は以前よりも多く、そして力を増していることも事実です。私が言っているのはもちろん、インターネットとソーシャルメディア、そして、私たちの声を届けてくれる全てのテクノロジーのことです。
国境体験を通じたよそ者としてのあり方、また異質な存在であるという感覚は、短編集「奇妙なマテリアル」と、最近では「よそ者たちの愛」で取り上げられています。生き残りの術は、あなたにとって何を意味するものなのでしょうか?
私は、現実の生活の中でしぶとく生きる人たちを尊敬しています。他人に対してだけでなく、自分自身に対しても律儀な人たちです。私が思い浮かべるのは、私の祖父母なのです。二人とももう90歳に近いのに、まだ木に登ることができて、周囲のほとんどの人よりもずっと健康体です。祖父母は、自分たちの周りにある有機物の世界と無機物の世界に対して、そして自分たち自身に対しても、十分に敬意を払い、できるだけ害を引き起こさず、できるだけ健康でいられるよう気を配っています。彼らは、これまでの人生で迫害と不正にさらされてきたけれど、他人を同じ目に合わせようなどとは夢にも思わないでしょう。例えば極右に投票するとかね。祖父母の暮らす村では、住民の7割が極右に投票していて、祖父母は、そういう環境の中ではもちろん「よそ者」です。そして、物語の中で私たちが応援するのは、もちろんそういう人たちなのです。
生き残り、そして罪を犯さないこと。これが私にとっては、一人一人の人間の主要任務です。どんな状況の中でも、人間らしくいること。もちろん、私の物語の登場人物たちは、「奇妙なマテリアル」でも「よそ者たちの愛」でも、自分の境遇の難しさと戦い、同様に自らの弱さに対しても戦いを挑みます。そもそもそういう人たちだからこそ、物語ることに意義があるわけです。彼らは問題を抱えています。ちょっとした問題、かなり大きな問題、ふってわいたような問題、一生つきまとう問題。そして私たちは、彼らがそうした問題と取り組むための戦略を見つけ出す様子を観察するのです。
コロナ危機後の文学を待ち受ける未来と課題については、どのように考えていらっしゃいますか?
私はこう思っているのです。とにかくあなたが周囲で目にするものを書きなさい、と。それは皆にとって、否応なしに有用なものになるはずなのです。あなたの才能は、予言者であることにあるのではないし、他の人より賢いことにあるわけでもない。あなたはただ、他の人よりも上手に表現することができて、もしかするとより正確な観察ができる、というだけのことなのです。あなたの特別な才能を発揮しなさい。つまり、観察して、描写するのです。
あなたの目標は、この二つをできるだけ正確に、そしてできるだけ的確に成し遂げることにしかありません。もちろん、あなたの書くものは、あなたの世界観を反映することになります。それでいいのです。ルサンチマン、抑えのきかない感情、知ったかぶりからは距離を置くようにしてください。清浄な心で書こうとしてください。あなたの創造主の前に立って、説明しなければならない時のように。そうすれば、あなたの行為は、あなたの同胞の役に立つものになるでしょう。書くことは、私にとってひとつの「奉仕」なのです。この世における私の任務です。でも、それは何も私が「予言者的な」仕事をしなければならないということではありません。もう一度言いますが、観察すること、そして描写することです。あとは自然に続きます。
あなたの目から見て、トランスナショナルに書くという行為は、現在どのような状態にあるでしょうか?
トランスナショナルな履歴は、様々な理由から生まれます。珍しいものではないし、もはや珍しいものと受け止められてもいません。それと同じで、トランスナショナルな文学も、もはやマイナーな現象としてではなく、「ノーマル」なものとして捉えられていくことが増えると思います。もちろん読者(出版社、文芸評論)は、これからも「故郷に関連すること」を取り上げた文学を好み続けることでしょう。ドイツ書籍賞の受賞作品には、何らかの形でドイツの歴史に関わりのある作品か、あるいは「故郷」と関わりのある作品が定期的に選ばれますしね。広い(ヨーロッパの)空間を舞台にした私の小説「怪物」は、例外だったのです。
ハンガリーでベストセラーになっている作品(残念ながら私が詳しく知っているのはドイツとハンガリーの文学だけなので)を見ても、やはり同じことが言えます。ハンガリーについて書いたハンガリーの作家がベストセラーリストの上位を占めているのです。ただ、例えばアンドレア・トムパの小説「故郷」には、生まれた土地を離れ、自分自身の内部にある場所を故郷とする女性主人公が登場しますが。
トランスナショナル文学が、ヨーロッパ思想を強めることに役立つかどうか、そして、トランスナショナル文学が、一見トランスナショナルには見えない文学よりもその点でより有効であるのかどうか、私には全く何とも言えません。自分が属する国民国家の中に閉じこもらない方がいい、という思想は、ドイツ、フランス、ハンガリーなどの地方で生まれた物語にも登場します。文学が、政治あるいは人々の共生に何らかのプラスの影響を及ぼすことができるのなら、それは素晴らしいことでしょう。ただ、もしそうなるとしても、それは長期戦になるでしょうね。これまでの経験から言って、どの時点の「現在」においても、私たちに耳を貸す者は誰もいません。ジッドの名言の通りです。「全てはもう言われたことだ、だが誰も聞いていなかったのだから、繰り返し言われなければならないのだ」。