セックス「レス」
商業化されるエロスと排除される生身の女性

Akihabara
© Paul Bourke, flickr CC by 2.0

先日、日本の現代文化に関心があるというアメリカ人の作家(女性)を、秋葉原に案内する機会があった。

秋葉原は東京を代表する街の一つで、アニメ文化、オタク文化、アイドル文化といった日本のサブカルチャーが集結する “オタクの街”として、国内・海外からの観光客が跡を絶たない。私は彼女を「日本の今を象徴している街だから」と誘い、まず、大通りに面している書店に入った。そこで売られているのは、主に少女が性的に描かれた漫画だが、秋葉原に限らずとも日本社会で生きている限りよく目にするもので珍しいものではない。そういった漫画を紹介しながら「これは“萌えキャラ”と言われているもので」と説明を始めたのだが、そのとたん、それまで楽しげに話していた彼女の顔が強ばり、怒るような顔で目に涙が浮かんだ。追い打ちをかけたのは、彼女が「ここにはいられない」と言い捨て店を出るとすぐ、メイドの格好をした若い女性が「メイドカフェ、いかがですか〜?」と彼女に声をかけたことだ。アイロンのかかっていないメイド服を着て不自然な高い声を出しながら、誰彼かまわず声をかけている“メイド”を一瞥した彼女は「ノー!」と強い調子で頭を振り、怒りと困惑をあらわにしたまま大通りに走り出るようにしてタクシーを止めた。

私は彼女の怒りに、心からショックを受けた。正確に言うならば、“彼女の態度に”ではなく、“彼女の怒りを全く予測していなかった自分に”だ。私自身フェミニストとして、小児性愛表現や性暴力表現には敏感であるつもりだ。それでも彼女の怒りは予想しなかった。なぜなら私が選んだ店は、小学生でも入れる明るい雰囲気の書店だったから。目をとろんと潤ませ無邪気に媚態を取る幼女の絵はあちこちにあるが、あからさまなセックスや暴力が表現されているわけじゃないから。そしてそのような絵は、あまりに日本社会の日常の風景だから。「この程度で」「あそこまでの反応を?」と一瞬戸惑った私に彼女が教えてくれたのは、私が完全にこの環境に慣れていて、ずいぶんと前から無痛になっていたことだ。

抵抗しつつも慣らされていく。その事実に、私は突きつけられた。
 
未成年者歓迎!
Manga Mädchen © pixabay CC0
秋葉原で売られているものは漫画だけではない。幼児の性器を模した男性向けのセックストーイが「パパ入れて」とか「処女」といった宣伝文句付きで売られ、ポルノショップでなくても、「身長149cm体重29kg」といった女性の身長と体重が大きく記されたポルノが売られている(出演者が“子どもに見える”大人であれば、幼児を性的対象にしたポルノは合法的に流通できる)。
 
夜にもなれば、制服を着た女性たちが「ガールズバーいかがですか?」「JKリフレいかがですか?」と通りを歩く男性たちに声をかける。JKとは女子高校性の略、リフレとはリフレクソロジーの略で、制服を着た女性によるマッサージや、耳かき、添い寝など、性器の挿入行為のない「合法的」な風俗に溢れている。そしてそのような「店」は、通りを歩いていれば誰もが確認できるように大っぴらに営業されている。誤解のないように言えば、こういう状況は秋葉原だけではない。電車の中ではセックス特集を組む男性向け雑誌の広告が水着姿の女性写真と共に堂々と掲載され、街の至るところにある24時間営業しているコンビニエンスストアでは男性向け雑誌が堂々と並べられている。日本社会で、男性向けエロは日常の風景だ。
 
秋葉原で怒りを見せた女性は私に、後にこう言った。「ああいう所に行くのなら事前に、あなたは私に何を見るのか伝えなければいけなかった」と。その通りだと思いながら、私は心の中で思う。「果たして、この国で生きている女に、アレを目にしない権利は与えられているのだろうか」と。
 
基準は男性向けのエロ
 
私は1996年に日本では初めて、フェミニズムの視点からセックストーイショップをつくり、ジェンダーや性に関する著書を記してきた。セックス産業の中にいながら性文化を外側から見つめる、というような作業を経験してきた者として断言できるのは、この国で女性のモノ化は極まりつつあり、性の言説といえば男性を消費者として設定とした商業的エロが中心になっている現実だ。
 
「夫婦間のセックスレス」や、「若者のセックス離れ」などは、もう長いこと日本の性現象を表すキーワードとなっているが、一方で、先の秋葉原のような苛烈化する二次元性表現、セックス産業の継続的な拡大、日常的にエロが簡単に手に入る光景を、私たちは生きている。ここでは、男にとってのセックスと女にとってのセックスはまるでちがう。男にとっては金銭を介せばいつでも気軽に安全に楽しめるものであり、また女性を対象にする限り、どのような欲望であっても罪悪感を持つことなく発散できる権利だ。女が主体的に性を楽しむなんてことが、絵空事に思えるほど、男のエロに溢れている。日本人のセックスレスの要因には様々な理由があるのだろうが、最大の理由を私は、男尊女卑文化の中で、女性がエロスから排除され、モノ化されていることが最大の原因だと認識している。

買春は誰のため?


日本は江戸時代(17世紀〜19世紀中盤)から遊郭を発展させ続け、19世紀中盤、近代国家として「欧米なみ」を目指しながらも公娼制度は手放さず、20世紀の戦争で世界に類をみない壮大な規模の「慰安婦」制度を軍と国家が率先して整え、戦後GHQが公娼制度を廃止した後も、「合法的にできる買春」を提案し続けてきた。日本の行動成長期にはアジア諸国に日本のサラリーマンたちが企業ぐるみで買春ツアーに行っていたのは有名な話しだ。この国の男性にとって、性を買う、とは「罪」の意識を感じられないほどに、制度化され、文化化され、社会化されている行為である。「男の性とはそのようなもの」という普遍化の論理を社会の基盤に添え、この国は近代を生き抜いてきた。
 
とはいえ、だ。私はいつもここで途方に暮れるのだ。性を好きな時に好きなように買えることは、男にとって必要な環境なのだろうか。それは男にとって幸福なシステムなのだろうか。その制度を維持することで、最も利益を得るのは誰なのだろう。第二次世界大戦時、日本軍によって最も過酷な運命を強いられたのは性暴力に晒された女性たちだが、徴兵された男たちもまた唯一の娯楽は買春、と男たちのその性を存分に利用される形で国家に殺されていった。
 
今私は改めて、性売買の問題を、日本のフェミニストとして考えてみたいと思っている。この手の話題はフェミニズムが捉えるべき課題としては既に古典的ではある。それでも、日本の社会がどのように公娼制度を継続させてきたか。そして今も続く性売買制度をどのように“終わらせられる”のか。そして現在は、性売買が問題なのではない、女性が強制的に働かされることが問題だ、という考えが日本のフェミニストの中でも主流の思想だが、殴られ引きずられ行為を強いられることだけが「強制」ではない。「自主性」の程度だけで、性売買の問題を考えると、性差別構造や、性売買業界の構造が見えてこない。だからこそ、丁寧に、古くて新しいこの問題を、「日本の今の問題」として語っていくべきだろう。

そうすることで、「ノー!」と、秋葉原の通りの真ん中で怒りを放った彼女に対して、私は答えを導いていきたいと考えている。


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