私のような身体
戦争の時代、私たちは誰に同情するのだろう?肌の色は、避難民の体験にどのように影響するのだろう?この日記の中でジョシュア・ムイワは、ロシア - ウクライナ戦争が始まった時、黒人がどのように扱われたかについて考える。
ジョシュア・ムイワ
ブーゲンビリアと蛍光灯に囲まれた広いバスルームで – 街中の自分のアパートからは遠く遠く離れたその場所で、私は大胆な姿でセルフィーを1枚撮る。そしてその写真を、最近よく遊ぶ機会があった大勢の男たちのうちの1人に送る。私がこんなことをするのは、生まれて初めてだ。それに対して彼の方は、そういう写真を私にたっぷり送りつけてくる。それらの写真に対して私が思いつく反応といったら、とまどいながらの「すごいね」しかない。だから私は、今回は自分も同じような写真を送ることに決めたのだ。
自分の身体 – 服を着ているにしろ、着ていないにしろ – は、私のアーティスト活動の恒常的な一部だったわけではない。しかし、自分の身体を撮影する試みはいつも、身体を格好良く見せ、鑑賞に供することを目的としていた。あるいはそれは、その写真の中に自分を見つけようとする訓練だった。
肌が黒いことは途方もなく美しいが、同時に重荷でもある。まるで、自分の外見から逃れることが絶対にできないかのようだ。私はいつも、私の身体に対して示される反応は正しいものではないと思ってきた。私は自分が、私たちの身体にまとわりつく神話で常に判断されていると思ってきた。そして自分はその神話にふさわしい存在ではないと。私があらゆるインタラクションの最初から戦いを挑んでいる相手は、一目見た瞬間から私について下される数多くの決めつけなのだと感じる。
「正しい肌の色」
この不安定な立場から見れば、関心を示してくれる誰かに対して写真を送ることは、全く私らしくないことに思える。今日は特別な日であるに違いない。そして今日は、1人の男が、他の独立国に宣戦布告をした日だ。さらに、肌の色が本当に世界で一番通用するパスポートであることを私に思い出させた日だ。正しい肌の色を持っていることで、国境は突破できる。美しさも国も超えて。政治リーダーも、ニュースキャスターも、これらの人たちの苦しみは私が自分の人生で経験してきただろうあらゆることよりも、はるかに大きいのだということを、ひっきりなしに私に思い出させる。なぜか?それは今、爆撃にさらされている人々が「洗練されていて」、「青い目をしていて、金髪」で、「ヨーロッパ人」で、「自由選挙」をしてるからだ、などなど。破壊の様子、人生の全てをカバンにパンパンに詰め込んだ人々の様子を目にしては、誰もが慰めようもない気持ちになり、目に涙を浮かべる。誰が大切?
その間、私のような身体は、国境検問所で人質に取られていた。私のような身体は棍棒と銃で脅され、侵略された国の国境警備隊によって、自分の命を救うことを阻止されていた。私のような身体は、全く大切ではないのだ。私のような身体は、あなたたちに涙を流してもらうには足りないのだろうか、と私は自問する。私はなぜ、ウクライナ・ポーランド国境から実況を伝えてくる若いマラヤーリ女性の姿から目を離すことができないのだろう?あのウガンダの学生たちはトルコに入れただろうか?-- あの若者のツイッターアカウントは停止されたようなのだ – 私のような身体を持つ人たちは皆、食べ物をもらえただろうか、飲み水をもらえただろうか、そのうちには暖かい寝床も?それとも、私のような身体は、ネットフリックスを見ないし、インスタグラムのアカウントも持っていないし、はるか遠くの貧しい国から来たから、死んでも仕方ないのだろうか?私のような身体は、戦うことには慣れている。でも、戦争には慣れていない。今日。私は、この黒い身体の大胆な写真を撮った。
今日。ロシアがウクライナに宣戦布告した。
今日。黒い身体は殴られ、自分のいるべき場所がどこかをわきまえろと国境から追放された。またもや。
これら全てが、今日起きた。これら全てが、本当のことだ。
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