「バウハウスの女性たち」
女性入学者推奨――多すぎなければ!
バウハウスにおける女性というテーマは、神話に溢れている。テレジア・エンツェンスベルガーの指摘はこうだ。男女同権に関してバウハウスは進歩的ではあったが、女性の包摂の動きは不完全に終わった。
テレジア・エンツェンスベルガー
『バウハウスの女性たち』は渋谷のユーロスペースで11月23日より開催される『バウハウス100年映画祭』の一貫として公開されます。公開に先立ち、同映画祭主催のトレノバがゲーテ・インスティトゥート東京で行うマスコミ向け試写会に、30名様を抽選にてご招待。参加希望の方は当サイト上の「オンライン申込」から、10月7日までにお申し込み下さい(1名様2枚まで)。当選者には10月8日(火)までにメールで連絡いたします。
#MeToo が芸術界に到達した際、私は次のように読み解いた。「私たちは驚かない。キュレーターが展覧会の開催や支援のオファーの対価として性的サービスを要求しても。私たちは驚かない。ギャラリストが芸術家の性的な悪行を美化したり、矮小化したり、隠蔽したりしても。私たちは驚かない。収集家やパトロン候補が性的な意図を持って会うこと提案しても。私たちは驚かない。言いなりにならないからといって報復を受けてされても。権力の濫用は、驚きではない。」2017年10月30日に何千人もの芸術関係者の署名とともにイギリスの『ザ・ガーディアン』紙に掲載された公開書簡は、権力関係についての公の議論が、いかに遅れてここまで到着したかを明確に示している。しかし、芸術界には、この問題の克服を特別困難にする要素がある。例えば天才神話や見えない社会資本、あるいはアヴァンギャルドが自身を極めて進歩的だと捉えているがゆえに、自らの権力濫用やセクシズムに目を向けることが困難だという事実がそうだ。これらの盲点は新しいものではない。バウハウスはモダニズムを代表する重要な機関の一つ、公営住宅建設の先駆け、進歩的な学校、才能の研鑽場所として評価されている。これらはすべて誤りではないが、不完全である。ヴァルター・グロピウスが1919年にこの学校を創設した際、そのプログラムにはこうあった。「入学を許可されるのは、年齢と性別にかかわらず、持ち合わせる才能と教育がマイスター評議会に十分と認められた、すべての誠実な人物である。」バウハウスの前身、ワイマールにあったザクセン大公国造形美術大学は、ワイマール共和国建国前には数少ない、女性の入学が認められていた芸術アカデミーだった。グロピウスの宣言は大きな反響を呼んだ。1919年夏学期、女子学生は84人に対し男子が79人で、50%をわずかに上回っていた。マイスター評議会は大挙して押し寄せた女性たちにお手上げとなり、グロピウスは「入学直後の厳しい選抜、とりわけ数の面で多勢を占める女性に関しての適用」を求めた。この選抜は基本的に、女性を元来女性の領域とされた分野に追いやることが目的で、その一つ、織物工房などは一時「女性クラス」と呼ばれたほどだった。
このことをポジティブにとらえた女性たちもいた。他の工房のマイスターは干渉しなかったため、自己決定と連帯の雰囲気があった。1920年に一時期「女性クラス」を率いたグンタ・シュテルツルは織物の中に自らの才能と使命の一致を見た。1927年、シュテルツルは学生たちに推されてユングマイスター(若親方)となり、織物部門の唯一の責任者となった。彼女は後にも先にもバウハウス唯一の女性マイスターであった。初めは絵画を志していたアンニ・アルバースも、クリエイティブな自己実現の場として織物というメディアに出会った。彼女は抽象化の実験を行い、織機による厳しい制約にインスピレーションを得、繊維の扱いにおいて極めて革新的だった。彼女は1930年に、遮音性に優れ、光を反射する、木綿とセロファンで作ったテキスタイルでバウハウスを修了した。
しかし、女性が皆、望んで織物工房に行ったわけではなかった。グロピウスの選抜は効果を表し、設立数年間でバウハウスにおける女性の数は減少していった。織物は工芸として扱われ、したがって芸術と造形のヒエラルキーの中で最底辺層に位置した。長い間、織物工房が利益を上げる唯一の部門として、男性優位の部門の発展を金銭的に支えたことは、歴史の皮肉である。
壁装工房の造形主任オスカー・シュレンマーは彼の価値観をこう表現した。「綿があるところには、女性がいて、時間つぶしのためでも機を織る。」しかし彼の工房にも女性は進出してきた。例えば、外の領域を扱うのは男性のみという工房主任の指示を無視して、しばしば足場に居たロウ・シェーパー=ベルケンカンプである。マリアンネ・ブラントもまた、男性の領域であった金属工房に場所を勝ち取り、バウハウスの最も有名なデザインの責任者となった。三角形が切り出された円形の灰皿や、ティーポットMT49はそのうちの2例に過ぎない。それどころか、1926年に設立された建築部門も、女性なしでは安泰ではなかった。1928年にはロッテ・スタム=ベーゼが初めての女性として所属した。しかしこの珍しい出来事の裏には、新校長ハンネス・マイヤーとの不倫があった。二人の関係が明るみに出ると、マイヤーは彼女に、課程を中断するよう頼んだ。
これらの孤高の戦士たちは称賛に値するが、彼女たちは苦労した。性別の関係がまだ決定的に決まっておらず、バウハウスにの女性たちにいくらかの自由を与えた分野は、写真だった。ゲルトルート・アルントやルチア・モホリはこの自由空間で自らを新しく演出した。
1933年のナチスによるバウハウス閉鎖後、多くの元バウハウスメンバーには荒く、破局的で、一部は悲劇的な年月が続いた。6人のバウハウス生が強制収容所で殺害され、一人は爆撃で命を落とした。亡命することができた芸術家もいた。グンタ・シュテルツルはスイスで手動織物工房を立ち上げ、アンニ・アルバースは1933年から米国ノースカロライナのブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとった。ロッテ・スタム=ベーゼはオランダに新たな故郷を見つけた。
バウハウスの女性たちは何を残したのだろうか?ルクス・ファイニンガーのある有名な写真には、デッサウのバウハウスの階段での若い女性グループを写している。彼女たちは単発で、ズボンを履き、荒々しく自由にカメラを見つめている。これがいかに進歩的に見えようとも、私たちは過去の盲点を続行するのではなく、この女性たちを独立した芸術家としてみるべきだろう。「ヨーゼフ・アルバース、マルト・スタム、モホリ=ナジ・ラースローの妻じゃなかった?」まだこのような声を耳にすることが多すぎるのだ。だが、バウハウスの芸術家たち個人の展覧会が増えてきていること、個人に関するウィキペディアの記事が書かれつつあること、芸術史家によって伝記が書かれはじめていることは、近い将来そのような声を聞くことが無くなるのではないか、との希望を与えてくれる。